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「シュン……」



 リリン、と首輪の鈴がさらに激しく鳴った。

 南美川さんが泣きそうな顔をしている。葉隠雪乃がニヤニヤしている。



「なあ、来栖さん。私、きちんと、南美川さんのノルマ果たしましたえ。……ほら、ノルマも果たしてますやろ」



 葉隠雪乃は、ノルマ計測器を見せてきた。そのディスプレイには、たしかに、……今日のぶんのほとんどのノルマが果たされたあかしが、刻み込まれるかのように表示されていた。

 もっとも、すこし足りない――でもこの時間では、その歩数が妥当なところだったろう。足りなかったぶんはこのあと僕がすこし、……散歩させてあげれば、それでいい。



 葉隠雪乃はまるでおもちゃでも取り扱うかのように、歩数計をぶらぶら揺らす。



「私なんかあないな距離いくらでも歩けますけど、わんこの身体には、つらいのなあ。……でも歩かなあかんさかい、無理くり動かしましたのん。あはは。わんこやさかい叩けばなんでも言うこと聞きますのなあ。あはは、あはは、……あの南美川さんが、滑稽や」



 滑稽。

 ……言葉を、取り繕うことさえしていないみたいだ。




 僕はまたしてもため息を押し殺すように口のなかで噛み殺して、……空気をひとつ呑んで、なにかを深く、……諦めるかのようにして、言った。



「……あの、葉隠、さん」



 葉隠さん――呼びかたはそれで間違えてはいないよなと、言ったあとで、……後悔のように確認する。



「南美川さんのお散歩、していただいて、ありがとうございます。ほんとうなら、僕がすべきことだったんですけど――あの、それなので、……南美川さんを、こっちに戻してくれませんか」

「そないなこと言いはったって犬を野放しにするわけにいきませんやんかあ。なあ、幸奈、あんた首輪外したらおばかさんのわんこさかいどこ行ってまうかわからんもんなー」



 葉隠雪乃は、南美川さんのリードをなおもぐいぐい引っ張った。

 南美川さんはうずくまって苦しそうにしている。首の素肌に、首輪が強く食い込んでいく。



 僕は、こんどこそ、……ため息をついてしまった。いけない、とは思いつつも。

 そしてその勢いで、しょうがないと立ち上がり、葉隠雪乃の、……葉隠さんの目の前に歩み寄った。



「ありがとう、ございました。……リード、返してください」

「ええ、もうしまいなん? いけずう……」



 葉隠さんはどこか艶かしく、それでいて挑戦的に睨みつけてくるような笑顔を見せた。……目は、笑っていない。


 心臓が、すこし跳ねた。そしてそのまま、強くすこしばかり速く鼓動をはじめた。ああ。嫌だ。人間は、……ひとを相手にするのは苦手だ。いつまでも。どこでだって。人間どうしの建前上対等な関係としてかかわっていくのは、僕はずっと苦手なんだ。



 そんな剥き出しの感情を僕に向けないでくれ。

 そんななにか僕のリアクションが必要そうな振る舞いや気配を見せないでくれ。

 どうかお願いしますそうしてください、と、……いますぐこの場で土下座でもすれば、僕は、ゆるしてもらうことができるのだろうか。



 ……僕には、人間関係においてなにひとつ有用なことなどできるはずもないのだから。



 そう、思って――でもいまこの場のこの状況において、それが甘ったるい空想に等しいこともよくわかっている。

 僕が、いま、やるべきことは。……わかっている。たとえそれがひととかかわることであっても、やらねばいけないことがある――。




 僕は、葉隠さんに右手を差し出した。




「リード、返してください。南美川さんが、怖がってます。……お願いします」




 すこし、頭を下げた。

 そんなに深い角度ではない。

 ただ礼儀として必要かと思ったのだ――あって、このひとに頼んだのは、僕だ。ほんらい僕がやらねばならないことを、このひとの善意、あるいは不純物だらけの気持ちであったとしても、やってもらったことには変わりがない。



 ……頭を下げると見える草むらは、なんらふだんの公立公園を変わらない気がするんだけど。でも。――それでも。




「お願いします……」




 反応がないので繰り返して言った、……その瞬間、大きく派手で深く長いため息の気配がした。

 僕が、ついたのではない。これは。……葉隠さんの、ため息だ。それもたいそう不機嫌な――。

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