茶色の意思はわたしを審判する

 夏季休暇、すなわち本格的な仕事のはじまり。

 国立学府のキャンパス内を満たす、人工蝉たちのほどよいサウンド。……キャンパスのリラクゼーションサウンドがこの音になると、ああ、夏がきたんだわって思う、……わたしにとっての、三回目の国立学府での夏。



 わたしたちに割り当てられた第二研究室。

 わたしは今日も朝から実験作業に追われていた。

 白衣を着て、とりあえず来たらやらねばいけない作業をばたばたとこなしていると、ガチャリとドアが開いた。この部屋のドアをノックもなしに無断で開けていい人物なんて、たったひとりに決まっている。



「あっ、先生! おはようございます」



 そう、先生。

 今日もお化粧をばっちり決めて、赤いネイルもとっても美しい、先生――。



「おはよう。南美川さん」



 わたしの名前を、覚えてくれている。すくなくともさんづけをするべきひとりの人間としてわたしを認識してくれている――それだけのことで、わたしの心は、この先生と面談をしたあのときみたいに、踊った。



「来てくださったんですね、先生。いま、学会も控えてらっしゃってお忙しいのに……」

「ようすを見に来たのよ。ここでの実験結果も学会で他者を説得する重要なデータなんですもの。……意図通りに、きちんとデータは取れているわね? 南美川さん」

「はい、もちろんです」



 一瞬、返事に間が空きそうになってしまった。危ないわ。……でもとりあえずはおそらく即答できたもの。

 超優秀者のこの先生にとって間というものは無駄でしかない。躊躇も迷いもなく、このひとは、再生細胞学の第一人者として明るいとっても明るい道を、突き進む。

 ……それはやっぱりとっても正しいことで。

 とってもよいことだとしか、わたしには思えない。




 先生はにっこりとした。……いつもの通り。

 その微笑みが、向けられてきているあいだは、……すくなくともわたしは、人間として安心して過ごしていられる。わたしはそれほどに、このひとの……超優秀者の視線を、信じている。



「そう。よかったわ。……ではとりあえずデータを見せて」



 わたしは、鍵のつく引き出しのいちばん表にしまっておいだアナログペーパーでのデータ分析を見せた。

 いまどきの基本はもちろんデジタルだ。でもだからこそ、漏れてはいけない機密はアナログで管理するということも優秀者の世界では当たり前となっている。



 ……先生に渡すときわたしは手が震えそうだった、でもどうにか抑えて、……わたしもせめて真似っこ程度にでも、先生のようになりたいって微笑んでみようとした。




 先生は、じっとそのデータを見ている。めくっている。……その、ネイルの爪で。赤くかたちの整った、先生のトレンドマークともいえるとっても鮮やかで鋭い爪で――。




 そのあいだ、何分くらいだったのだろう、ううん、もしかしたらほんとうは何秒単位だったのかしら?

 わたしには、よくわからなかった。……それほどどきどき緊張しながら、わたしは先生の反応を、言葉を待った、……すごく真剣で凄みのある表情でわたしたちの取ったデータを見つめている先生の前で、息さえ詰めながら。




 先生は、やがて、にっこりとした。




「悪くないわね、南美川さん」




 ほんとうですか、とわたしははしゃいだ声を上げそうになった、……でも、その直後瞬時にそのリアクションは間違っているってわかって止めることができた。

 だって、先生の顔は笑顔のようだけれど目が笑っていなかったんだもの。

 ほんとうにほんとうに上機嫌なときは細く細く細められるはずのその目は、まるでネコの目のようにカッと見開かれてわたしを見ていたんだもの――ああ先生の目って真っ黒じゃなくてこうしてみるとどちらかというと濃い茶色に近いのねってって、どうしてだろう、こんなときに、そんな関係のないことを思って、わたしは、……怯えているのかしら。




「でもね。南美川さん」

「……はいっ」




 慌てて飲んだ生唾が、……喉に、つっかえそうで。





「もうちょっと、できるんじゃない? ……わたくしがせっかく目をかけて取り上げて差し上げている学生ですわよ、貴女は」




 茶色の意思が、わたしを見つめている。

 わたしよりもずっと優秀な存在で、わたしの優秀性をいまは実質担保してくれている存在の、このひとのそれは。

 わたしにとっては――神の審判にも、ひとしい。

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