優秀者街道をゆく

 狩理くんには、このあたりのことはずっと愚痴を言っていたわ。

 でももうすこし様子を見てみろよ、とかいうからずっと我慢していたの。


 でも、もう我慢ならなかったの。

 夏季休暇――とは名ばかりの、実質的には研究期間、……あの超優秀者の先生の社会的にすばらしく有用な実験をここから本格的にしていく、そういう時期への突入を目の前にして。



 もう、寛大になってあげられなかったの。

 その劣等性に目をつぶってはいられなかったの。

 だって仕方がないじゃない。

 ほんとうに、足手まといなのよ。

 いても、いなくてもおんなじよ。声を発してなんかおしゃべりしてうるさいだけ、いないほうがマシなくらいよ。



「……だから、しょうがないじゃない」



 ひとしきり愚痴を言ったあと、わたしはそう言った。なんだか落ち込んでいるように聞こえちゃったかしらとはっと思って、誤解されたくなくてわたしはすぐに顔を上げてそのまま赤ワインを飲み干した。なるべくね、おいしそうに飲んでいるように見えるように。



「ねえ狩理くん。この赤ワイン、おいしいわね。ねえ……」

「そうか。俺はこのままビールでいいよ」



 わたしは小さく唇を噛む、なによ、……飲んでみてともあげるともまだわたしはひとことも言っていないじゃない。



 わたしは、頬杖をついた。狩理くんを、見上げる。……この角度。こうして見上げていたならば、ちょっと前なら、……高校くらいのときならば、狩理くんはどこか優しく愛おしそうにわたしを見てくれたものなのに――。




「で、どうなのよ」

「なにが」

「だから、なにが、とかじゃなくて」

「えっ、だからなにが」

「わたしがなにを言っているのかわからないの?」

「えっ、うん」

「……狩理くんほんとに、わたしの話聴いてくれてた?」

「うん」

「だったらなんか言うことあるじゃない」

「えっ、なにを」

「……だから、感想よ」

「なんの?」

「わたしがそうやって今日苦労してがんばってきたんだって話したんだから、思ったこととか、褒めてくれたりとかさ、……わたしのためになるようなこと、言ってくれたっていいじゃない!」




 ああ、と狩理くんはまた笑った。

 嫌だ。嫌なのよ。狩理くんの、むかしからの幼なじみのその笑い。


 どうして、どうしてそんなふうに笑うの。

 皮肉っぽく、笑うの。

 いつからそんな顔するようになっちゃったの。


 狩理くん、ねえ狩理くん。わたし、優しいあなたが好き。

 まるでお姫さまみたいに、わたしのことを扱ってくれるあなたが好きなの。

 だからずっといっしょにいてあげたっていいって思っているんじゃない。

 あなたの事情がなんであれ、――わたしは、狩理くんといっしょにいてあげるわって、思ってるのに、……心底ほんとうに、そう思っているのに。




 どうして、そんな横顔をするの。




「……あー、煙草ほしい」

「やだ、狩理くんったら、まだそんなものに興味があるの。パパとママ、あんまりよく思わないわよって言ったじゃない――」

「あのねえ感想。感想ねえ」



 狩理くんは顎のあたりを自分の手で撫でつけた、……眼鏡の奥のいつもは鋭い目を、伏せがちにして。



「言っとくけど、褒めてほしいとかだけなら、俺ではなくて家に帰って家族に言ったほうがいいと思うんだけど」

「狩理くんだって家族みたいなものじゃない。わたしの婚約者なんだしさ。それにわたしいま、狩理くんに話したのよ? だから、狩理くんに訊いてるの」



 狩理くんは、はあ、となんだかやけに湿度の高そうなため息を吐いた。

 そして、なんでだろうか眼鏡を外して――やっぱり伏し目がちなまま、……ぽつん、としずくでも落とすかのように、口を開いて言葉を置いたの。





「……幸奈、なんか変わったよなあ」




 変わった? ――わたしが?




「いや、ある意味では予測可能な変化だった……でも変わった。幸奈は変わったよ。御宅は」




 狩理くんは眼鏡を外したままわたしを見た、……その目が赤いと思ったけれど、頬もおなじくらい赤そうだったから、それってたぶん単にお酒を飲んだからってことよね――。




「……御宅は迷いもためらいもなく、優秀者街道を突き進んでいくんだなあ」

「優秀者街道をゆくのは狩理くんだっておんなじでしょ。それを言うなら、わたしたちはおんなじ道で――」

「いいや。俺とは決定的に違うところがあるよ」



 狩理くんは、妙に優しく、そしてどこか生々しい視線でわたしをうかがうように見てきた。



「俺は、迷っているし、ためらってもいる。……そこが御宅にはまったくない」

「……だって、優秀者になるのに、なにを迷い、ためらうことがあるの……」



 わたしは、小さくつぶやいた。

 わからなかった。

 だってほんとうにわたしの幼なじみで婚約者でかつ優秀者のこのひとが、そんなことを言い出すのかがわからなかったの。





 わからなかったから、わたしはとりあえずテーブルを越えて狩理くんの身体の上に、覆いかぶさって乗っかるかのように座り込んだ。

 狩理くんが、……近い。

 物理的な距離ならば、いまは……こんなにも。



「……今日も今日とて俺には拒否権はないってことですよね、お嬢さま」



 またしても皮肉っぽく言う狩理くんを、黙らせたくて――わたしは無言で、そのシャツのボタンを外しはじめた。




「……あのさあ、ひとつ訊いていい?」



 わたしの意図通りにされながら、狩理くんはちょっと笑いながらわたしを見上げてきた。



「御宅、もう友達をつくらないわけ。……高校のときみたいな、弱者をかばうごっこはしないわけ。クラスのみんなにおせっかいなほど声かけてさあ――」

「……あのときはまだ、余裕があったもの。いまは、……劣等者に割くリソースなんて、わたしには、ないの」




 あんな、超優秀な先生の。

 あんな、社会貢献的に大きな意義のある仕事の一部を、まかされていて――。




 狩理くんは小さく笑うと、まるで顔でもそむけたいみたいに首を右に動かした。



「……御宅、ほんとうに変わったのな。あっけないな。予想……通りだ。典型的な、優秀者――」

「いっしょに、優秀者になるんでしょ」




 口にした瞬間、唐突でどこか変な違和感があった。

 それがどうしてかは、わからない。けれど。小さいころも頻繁に口にしていたその言葉は、いま口にすると、……ずいぶん、砂を噛むみたいなのねって、それだけはわかったの――ねえ狩理くん、だってわたしたちそれこそほんとうに小さな小さなころからそう言い合って、いっしょに優秀者になろうねって、ぜったいになるって、だから優秀者になるために、……ここまで生きてきたんでしょう?

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