お嫁に行けない

 十歳の、守那美鈴にとって。

 初潮を迎えた、その日のうちに。

 超優秀者の見込みが充分にあるとされていた、慕っていた、兄の部屋で。



 なにが起こったのかは、理解できた。

 守那美鈴はそのころから、適切な性教育を受けられないなんてことがないくらいには、それなりに、優秀だったから。



 適切な性教育というのももちろん、優秀者の権利だ。理解できる能力に達した段階で、教えられる。十歳ごろにその権利を有していない人間は、すくなくとも、その年代においては優秀者ではない。


 もちろんその年代だとまだ優秀者かどうかというのは固まりきりはしない。十代になってから、猛烈に追い上げてくる者だって珍しくはない。

 まあ、じっさい、二十代を過ぎてからは。だいたいは固定化されてしまう、というのは、研究でも常識でも示されていることだけど――。



 守那美鈴はすくなくとも十歳時点でけっして劣等ではなく、どちらかといえば優秀の見込みだった。

 なので適切な性教育も受けていた。

 なので、なので、なので――自分の身に、なにが起こったのかは理解できたとのことだけど。




 心の理解が、なにしろ、追いつかなかったようで。



 

『私、あのときの行動ね、いまも、後悔してるんだ』



 無理につくった茶目っ気たっぷりの声で。



『そのときにさ、ちゃんと、自分のこと弁えておけばさ、……あのとき、あんなに、とりあえずはあれ以上はさ、惨めな思いすることだって、きっとなかったのに』



 初潮を迎えたばっかりの。

 幼い、守那美鈴は。

 兄にされたことも理解した守那美鈴は。




 職場でもある台所に立つ、母親のもとに駆け込んだ。

 オールディにエプロンをして、商品の仕込みをする、そんな母の腰に一気に、抱きついた。



 守那美鈴の両親は、どちらかといえば兄のほうをかわいがっていたという。

 当然のごとく。


 けどだからといって、妹のほうがあからさまに邪険にされることもなかったという。

 たとえば誕生日のプレゼントの価値のランクなんかは、そっと調べれば、兄のほうが毎回まったく上だったりはしたが――つまりは、それくらいのことだけだったという。


 守那美鈴はなんだかんだで、両親のまっすぐとした、いまどき希少なほどまともな愛情を受け続けているのだと確信していた――そう、その日までは。



『お母さんは、いつも通り私に笑いかけてきた。あらあらどうしたのって、いつもの、お客さんに対しても、子どもに対してさえも人の好い笑顔でさ』



 あらあら。どうしたの。

 美鈴。



 優しく、目を細める母親に。

 守那美鈴は、兄にされた一切のことをぶちまけた――。



 母親はずっと優しい顔で聴いてくれたんだという。

 うん、うんうん、そうかあ、と。まるで、ほんとうに、理想の母親でもあるかのごとく――。 



 そのうち、なにかの感情が限界に達してしまって、泣き出した娘の頭を。

 母親は、やれやれとこれまた優しいため息をつきながら、しゃがみ込んで、その頭を職人らしい大きく骨ばった手で、ゆっくり、ゆっくりと撫でたという。




『そのうち、慣れるから』




 なんのことかわからず、幼い守那美鈴は母親の表情を、顔を上げてみた。

 そこには、ちょっぴり、感傷のような切なさが、滲んでいて。



『聞き間違いかなって、思ったよ。でも、お母さんは、そう言ったんだ。聞き間違いでも、妄想でもなくって。そのうち、慣れるからって。なにが――』



 なにがって、嗚咽混じりに、尋ねたら。

 母親は、……困ったように、さらに優しく、眉尻を下げたという。



『……お兄ちゃんは、勉強、がんばってるからねえ』



 だから、仕方ない。



『優しい子だし、いつも明るくて、あれで、案外ストレスも溜まるんだろう』



 でも、平気だと。

 母は、娘にそう言った。



 慣れるよ。

 そのうち、かならず慣れるから。


 痛くもなくなるし、むしろ、心地よく、気持ちよくさえなってくる。



 でも避妊については気をつけなくてはいけないねえ、とも母親は言ったという。

 平然と。

 今日は初潮とはいえ、その時期だから過剰な心配はないだろうけど。

 でもいちおう、薬を用意するから飲んでおこうねと。そこからは、万一のことがないように。薬をこれからは、飲もうねとも――。



 幼い守那美鈴は頬を引きつらせた。



『……それだから、なんなの?』

『だから、あんたはそんなに心配しなくても、いいよってこと』

『どういうこと? だって、私、お兄ちゃんにあんなことされて――』



 母親は、困ったように笑っただけだったという、……まるで、単に反抗期の娘を相手にした、善良で、ちょっと無知で、でもどっしりと、どこまでも子どもを思いやる、そんな母親かのようなようすで――。



 その、得体の知れなさが、底抜けで。

 守那美鈴は、かっとなった。

 普段、おっとり、のんびりしていて。それは自他ともに認めていて。ときどきお兄ちゃんに対して駄々っ子にはなっても、家族に対して本気でキレることなんて、ほとんどなかった少女だった――。



『私、お兄ちゃんにあんなことされたら、お嫁に行けない! お母さんは、それでも、いいの?』



 お嫁に、行く。



 オールディな価値観だとは、思う。

 けれどもあんまりにもオールディゆえに、その価値観は、わたしたちの子ども時代にはたしかに復活してきているのだった。



 そこに幸せを見出すことだって、けっして珍しくはなかった――お嫁に、行く。




 守那美鈴の母親の答えは、至極簡潔だったという。




『お嫁に、行けなくたってね。そうしたら、お兄ちゃんが、美鈴のこと一生面倒見てくれるから。……ね?』

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