百一倍までいけたから

『まあとにかく、そういうわけでさ。頭がコンピューターのデザインキッズとやりあわなきゃいけないんだなあ、って思って。だってそうじゃなきゃあの博士は約束を果たさないし。……あの子たちの生活を保障してくれるって。ほんとうは、ちゃんと信じられるわけもなかったよ。でもさ。……私が有用だってわかれば、多少は私に対して対等っぽく、約束果たすと思ったし』



 黒鋼里子は、肩をすくめた。



『でもね、その円周率記憶コンテスト。よくよく調べたら、いままでの歴代記録塗り替え者は、どうもほぼ全員が暗記に頼っていたようでさ、私、ちょっとほっとしたんだよ。って言っても、私の時代まではまだ、ナチュラルヒューマンの時代だったからかもしれないけど――』


 ナチュラルヒューマン。

 ……デザインキッズという言葉が浸透してきてからできた、いわば対義語。



『準優勝者っていうのがさ、よっぽどヘマとかしないんだったら。その百倍以上の桁っていうのは、達成すればどうもその時点では歴代最高記録保持者になるな、って。私はいけると思った。でもたぶん、それからのデザインキッズの時代では、簡単にあっけなく覆されるだろうね。っていうか。もう、覆されてるのかな。あれから気がつけば五年くらい経つわけだしさ――でもかまわなかったよ。私は、あのときだけ勝てればよかったんだからさ。……あのときから、いままで、あの子たちが生活できるんだったらそれでいくらでもそんな単純作業、できるし』



 その言葉で、もう、なんとなく、そのコンテストのオチって、わたしにはね、読めてしまったけれど、……やたらハラハラしているみたいな、あとのふたりとは違って――。




 黒鋼里子は、毎日毎日円周率の記憶につとめた。

 一日、何桁も、何桁も、覚えた。

 計算の得意なデザインキッズにも勝てるように。

 もしもなにか不測の事態が起きても、かならず優勝できるように。




『歴代最高記録保持者の百倍、覚えていくのはかまわなかったけど、とにかく人間の進歩の目覚ましい時代でしょ。だれかとんでもない超優秀者が飛び入り参加してくるんじゃないかって、私、不安で不安で、たまらなくってさ』



 だから、過剰に暗記をしたという――その詳細については黒鋼里子は語らなかったけれど、なんだか、……血反吐を吐くみたいな、ぜんぜんスタイリッシュじゃないっぽい雰囲気は、なんとなく伝わってきた。

 もともとの優秀性があったうえに。そんな、泥くさい、かっこ悪い努力を、あわせたのね――よくやるわ、って思ってわたしは、こんどは甘いほうの飲みものを、あらためてごくりと、飲んだ。



 そしてそのすさまじい記憶力を前提としたすさまじい努力は、結果的には、いい意味で無駄になったんだという。

 黒鋼里子は、あっけなく円周率記憶コンテストで優勝した。

 あっけなく。



『頭がコンピューターのあの少年には、悪いことをした。……彼、あの件で、殺されてなければいいけれど』



 不完全な出来じゃないか、このジャンク――五歳の少年は、両親にめちゃめちゃに殴られていたのだという。



 それでも、すごかったのだ。

 ……歴代記録保持者に、迫ったのだ。

 計算力、だけで。


 すくなくとも、黒鋼里子は、……そう、主張した。


 彼は、さらなる開発を施されてまたなんらかのかたちに社会で目立つのか。

 それとも。そのときに失敗作とされて、いまはもう改良作が彼の代わりにその数学者の夫婦のあいだに、なんらかいるのか――。




『私は、彼のちょうど百一倍にあたるところまで唱えて、終わりにした』

『百倍で終わりにせえへんかったんやなあ』

『うん。……なんていうか、保険』



 黒鋼里子は、なぜだかはにかむように微笑んだ。



『ほんとうは、もうすこしいけそうだったんだけど』



 それだけの数字を唱えるには、かなりの時間もかかった。

 日が暮れて、また昇って、また暮れかけるくらいには。



『だから。もうやめようって――』





 ここまでいけば、百倍以上は確実だ。

 そう思いながら唱えるのをやめた黒鋼里子は、……その瞬間、舞台の上で倒れたという。






 ああ、とわたしはどこか白けたような気持ちで、思っていた。

 知っているわ、わたし、このひとのこと。たぶん。

 知っていたわ。そのとき、当時に。おんなじ、時代に。……リアルタイムで、きっとわたしのほうから一方的に、知ったんだもの。






 ……貧困劣等者の仲間たちとやらのために、その驚異的で解明しきれていない暗記力を生かして、円周率の暗唱、歴代記録を塗り替えたという、同学年の、高校生――。

 うちの、モノクロで統一された広いリビングのオープンニュースモニターで、観たもの。

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