迷いながらも、託した
「僕なぞには、よく、わかりませんけど」
カル青年が、人の好い、それでいてどこか軽薄にさえ見える笑顔を浮かべた。
僕はとっさに思った。この笑いかた。峰岸くんに、とても似ている――。
「Necoプログラマーの社会人のかたは、ペットのワンちゃんを、とってもだいじにしてるんですね」
「そのようです。このような非常事態においても優先させるくらいのペットですから。優先順位がたとえ逆転してでも」
カンちゃんさんの言葉。かなうのならば、僕は反論したかった。
……僕にとっては、南美川さんを人間に戻すほうがよっぽど、優先なんだと。そのための手段である散歩のほうが、この非常事態をどうにかすることよりも、僕にとってはいまするやらねばいけないことなのだと――。
しかし、……もうわかっている。
この事態は、僕がとりあえず対処にあたるしかない。
だって、僕は対Necoプログラマーだから。僕以外には、いまここでダイレクトにその問題にふれられるひとが、いないから――。
「……そうなんですよ。僕にとって、とてもだいじなことでして」
愛想笑いを、つくってみた、……はたしてうまくできているだろうか。
「それをしないことには、……どうも、Necoへの対処にも集中できない……」
「脅してるんですか、それ」
カル青年の明るくテンポのよすぎる声に、僕はびくっと振り向いた。
カル青年は、怒ってはいなかった。でも――目が、笑っていなかった。
ああ。こういうの。僕は……よく、知ってる。
「えっ、いやいや、いいんですよ、べつに、なんにも気にしてませんし」
カル青年は照れたように、頭を掻く――しかしもちろん、そんなことで僕の動悸は収まりやしない。
「あなたは、社会人で。その専門性を生かして、社会に貢献してもらってるんですから、そうですね、……すこしくらいのわがままを言う権利は、ある」
「カルさん。言いかた」
「ああ、ごめん。カンちゃん。僕がつまらないことを突っ込んでしまったばかりに」
同僚にしては気安い会話に、僕の動悸はますます速く重たくなる。高校時代を、……思い出すからだ。あきらかに。
「対Necoプログラマーでいらっしゃる、社会人のかた!」
カル青年はそう言うと、満面の笑みを向けてきた、……ああ、怖い、なんだ、これ。
「あなたがペットの散歩をすることによりあなたの業務に集中できるなら、われわれは最大限に、協力しましょう」
南美川さんが僕の膝で服越しに爪を立てたのがよくわかった、……怖がらないで、と言ったところで、きっと、無理があるだろう。
「なにか、ご事情もおありのようですし――」
カル青年からは、さきほど感じた鋭い気配はいつのまにか消えていた。だからだろうか、僕の動悸もすこしずつなら収まってきてくれた。けれど、それはこの状況のシビアさをなにひとつとして軽減してはいない。つまりそれは、――僕は、ここではひととかかわらねばいけないんだということ。
そのあとその場にいた、人間――たちで相談をして、本日の南美川さんのお散歩当番が決められた。
僕の希望は尊重され、リードを握るのは葉隠雪乃に。……もちろん、嫌だし、とてつもなく怖いが、南美川さんが人間だと知っている意味においては、まだマシかもしれないと僕は判断したのだ。
葉隠雪乃はひとりで行けると主張したが、だいじな社会人のかたからの預かりものですと、カル青年が同伴していくことになった。
リードの持ち手を、葉隠雪乃に渡し。
歩数ノルマ計を渡し、お散歩セットを渡し。
僕は、ひと通りのことを説明した。こんどは、ネネさんのことや人間に戻すということは伏せて。なんだってさっき、あんなにも葉隠雪乃にほんとうのことを語ってしまったんだろう。溢れ出して、きて――どうしようもなくなって、しまったんだろうか?
受け取った葉隠雪乃は、嬉々として凶暴な笑みを隠そうともしていなかった。
彼らを、見送った。
ふたりの背中と、……この社会では一匹とされるあのひとの、お尻と、くるんと丸まった尻尾。
南美川さんは、いちど振り向いた。
その目には涙がいっぱいで、恨めし気に僕を見ていた。
いますぐ視線を逸らしたかった。
しかしそんな勇気さえなかった。
わかる、わかるよ南美川さん、僕だって、……これが正しかったのか、わからない。
南美川さんを、ひとに預けるだなんて。そんなことまでして、この仕事をすることが、正しいのかは――わからないんだ。わからないんだよ。南美川さん。
そういえば、南美川さんと離れたのなんてほんとうにひさしぶりで。
――公園には、そよ風が吹く。
植物人間がいて、草原には小さな顔が生え、不自然に変質していくこの世界でも、
夕暮れは……ひたひたと、近づいているみたいだ。
なあ。
だれか、教えてくれよ。
だれでもいいよ。だれでもいい。
僕は、どうしたらいいんだろう。
どうしたら、よかったんだろう。
どこから、僕は、間違えたんだろう、いやあるいはいまも間違え続けているのか――そんなことを戯れみたいに思いながら、カンちゃんさんが静かに佇むその横で、芝生の上で、僕はしゃがみ込んで、ノートパソコンを開いて、……作業を、続けるのだ。
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