そして、また現れるのは

「……ねえ、だったらシュンは、どうするの」



 隣におすわりしている南美川さんが、小声で、でもはっきりと僕に話しかけていることを、感じながら。



 感じながらも。

 タイピング音を途切れさせてしまわないように気をつける。タイピング音というのは立てることが目的ではない、もちろん。たくさんなにかをを打ち込むことによって、結果的に発生してしまうものだ。だから、音のほうに意識を向けるなんてことはほんとうは違うと、わかっている。

 わかっているが、僕はあえてそうした。カタカタカタという、職場で馴染んだ音を職場で馴染んだ通りに発生させるよう、心がけた。そうでもしないと途切れてしまうと思った。作業、自体が、そのものが。考えてしまえば、思考に嵌まってしまえば――足もとがぐらついて、真っ逆さまに落ちてしまう、そんなことだって、……あるのだ。じっさいに。



「わたしの、……そのことを優先するなら、あなたは、どうするの……」

「どうするって」



 返した僕の言葉はあるいは、……南美川さんの耳には、一種機械的に響いたかもしれない。



「だって、あなたには、お仕事がある。ここで、やらなくちゃいけないことがある」



 カタ、カタ。……カタカタカタ、っと。



「あなたは、いまここですごくみんなに……必要とされてる……」

「光栄だね」



 自分を嗤って、またキーを打った。コード、起動、七十七番目、……ゾロ目であることに、この試行錯誤においてはなんにも関係ないんだけどな。



「わたし、冗談を言ってるんじゃないのよ! だって、いまの状況、現実的にっ――」

「――しゃべってええんか、南美川さん」



 ダン、と過剰にキーを押してしまった。しかも、ミスタイプ。指がさらに滑って、なんと作業ファイルそのものを変に上書きしそうになった。慌てて、モニターに指を滑らせてバックアップ、ことなきを得る。……とんでもなくかっこ悪いけど、さすがに、仕方ないだろういまのは――。



 ……うん。夢とか幻ではない。いや、……あるいはここの空間じたいが、南美川化と真のつくった、夢とか幻かもしれないけれど……そうではなく。

 すくなくとも、いまこの質感においては。

 リアルに、あきらかに、そこに。




 ――葉隠雪乃が、存在していた。

 さきほどと寸分変わらぬ服装で、艶やかな長い黒髪で、……でも、腕を組んで、ちょっと呆れたように僕と南美川さんを見下ろす表情は、はじめて見た、かも……しれない。



「……あ、えっと、あの」

「ふたりはどしたん、って聞きたそうな顔してはるね」



 ……違う。そうだな、言われてみればもうふたりいたな、いまここにはそのふたりともいないな、と言われて僕は思ったのだから。

 でも、否定するほどのことでもない……否定は、労力がいるから。否定すると、だいたい傷つくことになるから。だから、僕は、「……はい」とおとなしくひとつ、うなずいておいた。



「んー……まあ、調査よ。えらい、たまげましたけど、いつまでもたまげてるわけにもいかないやんかあ。それぞれ分かれて、どういうことか調べてますのん。私ら、これでも、いちおうそういうことも学んだえ……やんなあ、南美川さん?」



 そう言いながら、葉隠雪乃はしゃがみ込んでくる。

 南美川さんに、手のひらを向ける――南美川さんは喉の音でひくついた音を出して、反射的に、僕のほうにすり寄って葉隠雪乃から離れようとする。




「……そないに怖がらんといて」




 葉隠雪乃は、苦笑するが。



 いや、それは、無理がある――そして僕だって、たったそれだけのことを言えやしない。ふたりだけでいるときには、南美川さんのことをいくらでもかばおうって、そして抱きしめることや言葉でよければ、いくらでも、……じっさいにそうしているつもりだけれど、僕は、……僕は、人間を前にすると、こんなにもなにもできない。

 意見ひとつ、言うこともできない。だいじなひとを、かばうために。僕は、無力だ――うつむいた。僕は、なんだかいつだって、……うつむくことしか、できていない。

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