わたしのせいだわ
僕は、しばし呆然としていたんだと思う。
混乱の只中にいて、……その原因ともじつはいちばん近いようなところにいて、
それでも、僕は――どこかひとごと感を、拭えていなかったんだと思う。
樹木人間を、見るまでは。
……尋常ではないことが起こっているとわかった。
もともとわかっていたつもりだったけど、やっと、やっとだ。
……心に、届いてきた。
いま、なにが起きているのかということが。
僕はしゃがみ込んだ。
地面の上、草の上。ああ、……それらの感覚は、やっぱりいまだにこんなに生々しくって単なるリアルに思えるのに。
ふたたび、ノートパソコンを開く。
もう十数回は試した管理者権限の実行。駄目だ。エラーだ。
デバイスの修復試行。ハードのトラブルチェック。ネットワークシステムの検査。駄目だ、駄目だ、――なにもかもが、でもどうにかしないと、
作業をする僕の指はまるで僕と違う生き物のように動き続ける。素早く、細かく、なにかを強く追って――。
「……シュン?」
手を止めるまで、一瞬のラグが必要だった。
僕は、ふらふらとキーボードから手を離し、そちらを見た。
南美川さんが、ふたつの肉球を、僕の右のふくらはぎの上に置いて、心配そうにこっちを見上げていた。
僕はとっさに周囲を見渡した。しかし、そこでは混乱が繰り広げられているだけで――南美川さんが小声であってもひとの言葉を発している、ということに、注目しているひとはだれひとりとしていないようだった。
「……だいじょうぶよ、わたしも言葉を使うときに、状況を確認するくらいできるわ……」
苦笑する南美川さん。――なんだか、そんな人間らしいすがたを見ることさえ、ずいぶんひさしぶりな気がした……今朝家を出てくる前にも、言葉でも表情でも、人間らしくやり取りをしているはずなのに。
僕は、……不器用に、ひとつ、ふたつとうなずいた。
「シュン。……だいじょうぶなの」
「……わからない。まったく、わからないんだ」
僕は、うなだれた。
南美川さんが、片方の肉球をそっとさらに前に差し出してくる。
「……この状況のこともだけど、わたしは、あなたのことも心配」
「僕のことが? どうして……」
「……シュン、ちょっと怖いんだもの」
「怖い? 僕が?」
「自分では、気づかないのね」
南美川さんは、苦笑を深めた。右の三角形の犬耳が、ひょこひょこと小さくどこか軽快に動いている。
「あなたに力があることはよくわかる。一生懸命、やろうとしてくれていることも。だから。……怖いんだわってこともわかる。わかるんだけどね」
「……そんなものは、なにもないよ。僕には」
力も、怖さも。そんなものをもてる人間ではないのだ、僕は。ただ、そうではなくて、僕は、この事態が、非常事態だって思うから、そうわかったから、とりあえずとにかくNecoのやつを問いたださなきゃって思っているだけで――。
南美川さんは、よいしょといった動きで、僕の膝の上によじのぼってきた。……僕はノートパソコンを慌ててずらす。そうした結果、南美川さんが僕の両膝と腹のあいだに、すっぽりと収まった――まるでいつも通りみたいに。
どんぐりみたいな、茶色がかった大きな目で、くりくりと僕を見上げてくる。……こんなに、近い距離で。
「ごめんね、シュン」
「……南美川さんが、謝ることじゃ、ないだろ」
「だって、でも、……化ちゃんと真ちゃんが、やったんだもの……」
南美川さんは、またしても笑った。苦笑――いや、違う。すごく似ているけれど、この顔は、……もっとせつなく、どこかが深い。
「どこで、間違えたのかしらね。わたし」
南美川さんが、明るく笑おうとしていることだけはよくわかった。なんてことないわ、こんなこと、だってわたしが悪いんだもの――そんな表情をつくろうとしては、嗚咽に似た感情にまぎれて、……その表情は、痛々しく歪んだ。
そして。尻尾と耳が、しんなりと力を失っていって。南美川さんがいかにがんばって気遣ってほんものの感情を隠したいところで、人犬の身体は、そんなプライバシーさえゆるさない――。
「あの子たちはね」
それでも、南美川さんは、笑おうとする。
「世界を変質させて、箱庭にして、支配してしまうくらい、――わたしのことを憎んでいるの。だから。……わたしのせいだわ」
――笑っている。
それと同時に、樹木人間にされた彼の――痛切なうめき声が、爽やかな香りと感触のそよ風に、乗っている。
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