エデンというなら

 人間のために、やるのか。他人のために。そう思えば簡単に身が竦んだ。いや、ほんとうに竦んだのは、心のほうかもしれない。わからない。どうでもいい、そんな細かい区別なんかいまは。ただ僕は、いま、竦んでいる。嫌がっている。いますぐ逃げたいと思っている。

 ひとのためになにかをすることを。

 ひとのためになにかをすることなんて。

 僕の存在が、なんらかの――影響を、及ぼしていく、だなんて。状況に対してもそうだが、おそらく僕は、……これでは、名前も容姿も、シンプルな個人情報も、そのくらいは、ここにいるひとたちに――覚えられてしまう可能性があるってことじゃないか。そうなりうるってことじゃないか。ああ、そんなの、――そんなのは、キツい。キツすぎる。そもそも会社においてだって、橘さんと杉田先輩に存在を認識されて声をかけられるということだけで最初は毎日戦慄するかのように震えていたというのに――。



 僕は、他人に認識されるだけで、……こんなにも怖いというのに。

 その上、なにかの役割を演じる?

 ここにいるひとたちのために?

 普段、どうにか僕が人間だと社会に認めていただいている能力で――なにかを、なしとげるというのか?

 ……社会評価ポイントが付与されるようなことを?





 ……ぐらっ、ときた。

 自分がふらついたのだ、と気づいたときには遅かった、僕は、……尻餅をつくような格好で背中から草原に倒れ込んでしまった。


 こんな世界なのに眩暈の感覚は本物だ。

 こんな世界なのに黒ずくめのいつものズボンから感じる草とぬめった土の感触は本物だ。

 それだったら。

 どうせ、支配され、つくり変えられた世界なら――感情だって、偽物にしてくれればよかったのに、






 なぜ、残した?

 ――南美川化と南美川真。

 僕が、こうやって、なにもできない醜い兎のように、みっともなく尻餅をついて、目の前のひとたちに脅えて、情けなくちょっと口を開けたままで、それでこんなに恐怖を感じていることを――楽しみたかった、とでもいうのか。




 人々は、まだ行動を開始していない。僕の目にはいま風景がやたらとスローモーションで見える。このあとたぶん青年が僕を心配して助け起こしに来るのだろう。このあとたぶん人々はありきたりで平凡で社会人として必要な程度の心配の念を僕に向けてくるのだろう。そうしたら僕はそのまま立ち上がってちょっと照れたような笑みを浮かべて、「はい、だいじょうぶです」だなんて言うのだろう。ほんとうに、ほんとうにまともなことだ――いますぐ死んでしまいたくなるほど。

 社会なんかから、……いますぐ縁を切ってしまいたくなるほど。それは、つまり、僕が人間ではなくなるということに等しいけれど――。




 ……尻餅をついているから広場のひとびとの顔の視線ははるか高みにあるように感じるものだ。




「……エデンというなら」




 僕のつぶやきは、だからたぶん、まだ、南美川さんにしか聞こえていないはずだ、南美川さん、人犬のすがたの南美川さん、つまり――いま尻餅をついている僕とは、唯一、……同程度だといえる程度には目線の近いひと。



「そこは、たしか、楽園のことを、苦しみのなかった、人間のもともといたところを、さすんだよね、南美川さん」



 南美川さんはうなずこうとしたが、意思疎通が人間らしくできるところを人前で見せてはまずいと思ったのか、ばつの悪そうなためらうような顔をしてうなずくのをやめていた。そして、その代わりに――僕の頬を、ひと舐め、ふた舐めした。……まるで、ひとの感情はわかり、でもそれでいてひとの理屈はわからないかわいいかわいい飼い犬のように。




「そういう、苦しみのない、とてもいいところだと、……エデンというなら、僕の、こんなものを、……こんなものは」



 南美川さんが、飛びつくように覆いかぶさってきた。

 どこかのとても幼い子どもの声が飛んでくる。わー、かわいいー、と、状況がわかってないゆえの無邪気な感想を述べている。


 はたから見れば南美川さんの判断力だってその幼子並みに見えるのだろう。いまこの、緊迫して、閉じ込められた、異常事態を、なにもわからない、だって犬だから動物だから、……人犬だから、ゆえにそんなふうになんにもわからず、飼い主に甘える――そんな、かわいい人犬に見えるのだろう。それは、幼子の目から見たって――。





 でも、僕は、わかっている。

 一見、飛びついてきただけに見える南美川さんの小さな身体は、僕の上半身を覆って、……その胸のあたりがあるから僕の表情はいまここで晒されないで済む、……その小さなふたつの肉球が頬にふれてくれているから、いまだけは僕は、……明確に、弱音を言える。




 だから、僕は。





「エデンというなら、僕の意識だって殺してほしかった。最初から。……そうすれば、楽になれるのに」




 僕は、僕であるということが、いつ、どこにいたって、なにをしていたって、……どんな状況だって、こんなにも、――嫌だ。




 南美川さんの肉球にぎゅっと力がこもった。

 それは、あるいは、南美川さんに聞かせてはいけないたぐいの愚痴だったのかもしれない。

 でも。南美川さんは、なにも言わなかった。鳴くことも、涙を流すこともなかった。



 ただ、肉球の中央の、ピンクのところを普段よりずっと硬くさせて、……爪をしまいきれないといわんばかりにすこしだけ立ててしまって、僕の言葉を――どこまでも広がるこの芝生に広げないよう、必死で、……なにかを押しとどめていてくれた。

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