見られる、呼吸

 でも、いつまでも、そのままでもいられなかった。

 ……うずくまって、南美川さんに慰めてもらっているままでは、いられなかったのだ。


 緊急事態だ、これは。わかっている。緊急事態だ……僕は心のなかだけで重たく繰り返してそうつぶやいて、どうにか、……重たい、重たすぎる腰を上げた、嫌だ、ほんとうに嫌だ、嫌だけど、僕には、最低限の肩書と技術がある――そしてこの公園にいるひとたちは、おそらく、そうではない。……この事態をどうにかしてほしいと、すがるように見てくる――僕を、ではない。たまたま、平日の公園で居合わせた、……人犬を飼うほどの余裕があるひとりのNecoプログラマーを、だ。




 ……でも、念のために、僕はたしかめなければならない。

 なにせ、ここからの確認作業は、それなりの作業量になることが予測できる――僕ひとりでできなくはないけれど、もちろん、だれかがいてくれたら助かる作業量でもあるのだ。この公園が、いや、……あるいはこの世界がとでも言ったほうが適切なにか、とにかく、……Necoインフラのなかからこぼれ落ちてしまったのであれば、早急に、……それを、回復することが望まれるだろうから。





 呼吸が、浅くなっていることに気づいた。……極端に。

 ふしぎなものだ。呼吸は、必要なのだ。ここでも。Necoが――いざというときに、酸素や二酸化炭素の量を調整すらしてくれない、そんな、……切り離された世界でも。


 嫌いだけれど深呼吸をした。

 深呼吸をするのは、嫌いなのだ……落ち着こうとしている、ということが露見するから。

 ……高校時代にも、そうやって、散々馬鹿にされたから。





 ……あのとき、僕の呼吸ひとつさえ、真剣な思いひとつさえ、どうにか、自分の荒ぶった心を鎮めたいと思ったゆえでの果てでの呼吸さえも、いちいち見つけては嘲って耐え切れないような低俗なネタにすることもあった、あの南美川さんは――いま、僕の足もとにいる。

 僕の足もとにいて、……あのときとは比べものにならない、そして、あのときにはぜったいに僕なんかには向けてこなかったであろう、真剣なまなざしで、そして、――あのころなんかよりずっと小さくなってしまった身体で、僕を、……僕だけを、見上げているんだ。





 ……それでも、気持ちを落ち着けるための深呼吸を南美川さんに見られるのは、どうにも――ばつが悪くて。

 僕は、早々にそれを済ませた、ああ、――もっと更に動揺してしまいそうだよ。





 人々だって、それを見ている。

 僕の一挙一動を見ている。



 普通にしていれば。黒ずくめの格好をして前髪で顔を隠して素肌を晒さないことで多少なりとも社会のひとびとへの不快感を減らした僕が、あくまでも社会的人間のふりをして普通にしていれば、僕はもう注目されることなんかなかったのに。せいぜいが、会社がちょっとキツかったくらいで。



 ……いい会社、いい上司、いい先輩に恵まれたという自覚はあるけど、それでも、あのひとたちは、ひとだ。ひとだ。……人間なんだ。あのひとたちは、僕なんかにとてもよくしてくれるという自覚はもちろんあるし恩も感じているし、でも、けど、……それは僕の能力がいちおう最低限社会人として相応しく、社会的な価値を生み出すものだと相手がわかっているから、いちおうはその能力の持ち主である僕のことも、最低限は社会人扱いしてやろうって、だけで、……心の底では変だと思っているはずなんだ、しゃべるたび、あいさつするたび、かかわるたび。どうしてこんな、ほんらいは人間にも満たないような存在が、社会人やってんだろうって、……僕なんかとかかわってしまったひとならだれしもそう思うはずだけど、でも、それでも、……まあいちおう社会に貢献できる程度の能力だけは、それだけはあるみたいだから、見逃してやろうって――僕は、かかわっている全員の人間にそう思われてるに決まってる。



 僕はだって高校でそれを教えてもらったから。南美川さんたちに。



 引きこもりのときには家族にだってその事実がバレてしまったはずなんだ。人間を産んだつもりだったろうに、僕はその基準にほんらい満たない存在だったんだと、家族全員に、僕はバレてしまったはずなんだ。……それでも人間として扱ってもらえたのは、たぶん家族という関係であるところのあのひとたちの、要は慈悲とか呼ばれるものでしかなかっただけで、……僕はほんとうに申しわけなく思っていたし、いまもそう思っている、せっかく産んだ子どもが――人間に満たないと知ったあのひとたちは、……じっさいは、ほんとうのところは、どう思っているのか、僕はそんなことは予想はついているけれど、……尋ねるほどには、強さなどない。


 二年遅れで入った大学でも同級生や先生は僕のことをそう見ていたはずだった。つまり、こいつはほんとうは人間に満たないのに、人間のふりをしようとしていると。高校ほど派手ではなかったし、あからさまではなかった。でもそれはたぶん僕が二十歳で大学生になるころには自分というものをどうにかわきまえていて、諦めていて、だからはじめから黒ずくめの格好を貫いてほんとうに必要最低限のコミュニケーションしか、試みなかったからだろう。自分が人間に満たないことなんてわかっている。社会人になんて、ほんらいとても届かないということだって。それでも人間として社会人であろうともがく僕はさぞかし滑稽に映っていたに違いない、……羽虫が自分を人間だと思い込んでいるに等しい現象だったに違いない。派手でも、あからさまでもなかったけど、そうやって捉えられていることは明確だった。……なんどかは嫌がらせをされたし、笑われたし、指をさされた。でも、僕はそのたびうつむくだけだったから……やがて彼らは僕に興味をなくしてくれた、のだと思う。……それは、僕にとっては、幸福とまで言わずとも、でもすくなくとも――限りない平穏に、ひとつ近づくことであった。

 ……先生は、相手が学生だということで多少は人間扱いらしきものをしてくれたけど、でも、……先生って、それが仕事なわけだし。それをすることで、……社会人でいられるって、だから、僕みたいなほんらいいるべきではない相手にも丁寧に接することで、……きっと、それなりの評価を受けていたんだと思う。それだけのこと。

 ……それだけの、大学時代の人間関係だったのだから。



 あとは通勤電車や街中で目立たないようにすればよかった。つねに黒ずくめの格好をして前髪を伸ばしてうつむいて。ちょっとでもトラブルになりそうだったらすぐに早口ですみませんと言えば相手は唾でもなんでも吐きかけて僕に興味を失って過ぎ去ってくれる。過ぎ去ってくれるのだ。過ぎ去ってくれていた。……人間は、そして彼らのほとんどすべての視線は、僕を。

 僕の上を、ただそうあるべきだから正しいありかただから、……僕なんかにひとかけらの興味がわかないというのがほんとうに正しいことだから、そのようにして――視線を、向けないでいてくれた。






 ……僕は、すこしは賢くなったのだ。

 すくなくとも、高校時代のときよりは。

 自分が人間なんだと――心底信じていたときよりは。

 ……視線を、向けられないようになったから。





 それなのに。――それなのに、だよ。

 広場の視線は、……深呼吸をする瞬間をさえ、僕を捉えてしまっている。





 いますぐにうつむいて謝罪を口にして足早に立ち去ってしまいたいのに、――状況が、それを僕にゆるしてくれない。……そんなことさえ。

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