空想しがち

 その歩数計を、ネネさんは、僕の手から受け取った。

 カチカチ、と慣れた手つきで歩数計を操作すると、必要な情報のページがあるのだろう、じっと歩数計のモニターを見つめて、なにごとかをひとさし指だけ使って手早く空間スライド式の見えないボードに書き込むと、ぴこん、と――オッケイです、と家ネコの初期設定でのかわいらしくお気楽な声が部屋に響きわたった、……Neco。


 さすがに高柱の名を冠した研究所というだけあって、テクノロジーの浸透具合も一般社会とは段違いだ。空間スライド式の見えないボード――もちろんそこにはほんとうは空間情報網くうかんじょうほうもうが張り巡らされていて、なにかを書けばそれをNecoインフラが察知、判断する。Necoというのは普遍的にいきわたるAIだ。だれもが親しく使うことのできるAIだ。人間ならば、だれでも、そう、この社会に生きる人間ならば――だれでも。


 ……ネネさんにとっては、Necoのベースとなった高柱猫というのは、あるいは遠いとはいえしかし名字が同じ程度には近い子孫なわけだし、おおいに影響を受けているようなそぶりもある。じっさい、そういう話だって聴かせてくれたんだから。

 しかし、よく考えてみると――そういえば、ネネさんにとって、……Necoというのがどういう存在なのか聞いたことはない。



 空間スライド式の見えないボードにネネさんがなにかを書いて、それをNecoが判断した。そして、なんらかの意味でオッケーを出した。

 いま起こったのは、そういうことだ。……当然、そのデータはNecoデータベースに蓄積される。


 ネネさん自身が、好ましく思っているにしろ、いないにしろ――こうやってNecoに見られているということを前提に、そのことを知りつつ、しかし僕たちはもうここでこの社会で、Necoに頼って生きていくしかない。未成人みせいじんはともかく、成人は、成人するときにそのことも合意させられる。それが嫌なら、Neco人工知能文化圏以外に飛び出ていくしかない。世界には、ほんとうは、……そういう場所もあるのだろいう。まだ、残されているのだという。Necoではない、どころか、まだなんの人工知能も介入していない――原始のような、人間だけのところ、というのが、あるらしい、……たまに、僕もそういう噂をクローズドネットでそっと見る。人工知能がない社会だなんて、信じられないけど、……それはもしかしたら、南美川さんが、オールディな伝承を好んで読んでいろんなことを空想するのとおんなじ――。



「……春。おい。春。確認は、終わったぞ」

「……あ、はい」



 僕は、なかば慌てて返事をした。ああ、いけない――ひとと会話中だというのに、僕はどうにも、こうして、……ときどきぼんやりしてしまう。

 ネネさんは呆れたような顔をして、どっかりと僕たちの向かいのソファに座った。……南美川さんが、うかがうようにこっちを見上げてきた。くりくりとした、相変わらずの大きなその瞳で、まっすぐと――。



「なにを考えていたんだ」

「……いま、なにを確認していたのかなって」



 嘘ではない。けっして、嘘ではない。なにも考えていませんと言ったら怒られそうだし、かといって、……人工知能圏外なんて話をしたってきっともっと呆れられるだけだ。


 無難なことを。無難な答えを。つまらないことを言い続ければ、すくなくとも最低限人間として生き続けられる。だれの印象にも記憶にもひっかからないように。感情なんか、けっしてひっかいてしまわないように。いつでも、無難で、つまらなく、どうでもいい、そんなことを言い続ける、ああ、……そんなことを意識しはじめたのも高校時代の南美川さんたちの影響だったよな……。



「だから、歩数だよ。事前に説明したし、そもそも、……毎日やってることだろう? 説明、ちゃんと理解してるか? もういちど、説明してやろうか」

「あ、いえ、……だいじょうぶです、はい、だいじょうぶ……」

「……おい春。だいじょうぶか? このごろ、なんだかぼーっとしてるぞ」

「あ、いえ、僕は、もともと……こういう……」

「――そうなのか? 幸奈。おまえたちはむかしからの馴染みだというが、春は、ずっとこうなのか」



 いきなり話を振られた南美川さんは、尻尾をぴんと針金のように垂直に尖らせて、はっとした顔でネネさんを見ていた。

 僕だって思った、――どうしてそのタイミングでその話をいまの南美川さん本人に、振る?

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