むかしばなし(8)人間じゃないんだって、言われた気がしたんだそうよ。

 ……殺したい、殺してやりたいよって。

 どうすればいいの? って――



 いま振り返れば、ね。

 ……あのときネコさんがおっしゃったことは、ほんとうに、ほんとうにすべてが本心だったのかしら。



 いえ。本心なのでしょう。私は、そのことを信じる、……信じている。

 世間も社会も、ネコさんの言葉はほんものだって思ってた、

 ……だって、レイプという、大変な理不尽に遭ったひとの言葉だったから。




 単に理不尽な、被害者の、それも人気者の……言葉だったから。





 ……なのだけどね。

 いま、この歳になって、ようやく思いはじめたのよ。




 ……あのあとの、ネコさんの行動をね、考えると。




 あのひとは、自分のほんとうの気持ちさえ、やがては利用する修羅になってしまったんじゃないかしら、って――。




 ……ネコさんは、当時の法律と社会の枠組みのなかでは、敗れた。

 けど。

 それは、長い目で見れば、……けっして敗北ではなかったと思うの。


 ネコさんを、みんなが応援した。

 それは、いままでもそうだったし、そういうのは、もっと強くなった。



 ……それも、だし。

 それだけじゃ、なかった。



 つまりね、みんなが自分の理不尽を、主張しはじめたのよ。



 いちばんネコさんの味方をしたのは、当然というべきか、レイプはもちろんのこと、性差別とか、いろいろの性被害にあったひとたち……。

 自身のジェンダーに問題を抱えるひとびともその勢いに乗ってきたわね。


 それだけじゃない。

 たとえば、お金のないひとたちの気持ちや、いわゆる恵まれないひとたちの共感を、ネコさんは、激しく得たの。

 ……それはもう、熱狂的に。



 ……どうしてなのかって、思うでしょう。



 ……私のおうちもね。

 若いころ、けっして貧乏ではなかった。……だからこそ、わかるところがあるのよね。逆じゃないかって? 違うわ。……恵まれていない、わけではなかったからこそ、私は、恵まれていなかったひとたちが猫さんの味方をすることが、すごくわかった。

 いえ。もちろん、私もね。――猫さんの味方を、したわよ。恵まれていなかったわけではなかった……でも自分が恵まれたわけでもなかったんだっていう、そんな実感が、あったから。



 自伝にも書いてあったし、ご自身でもだんだん熱く語り始めた。

 ネコさんの実家は貧乏だったんだって。

 ネコさんは五人だか七人だかもしかしたら十人くらいだかの子だくさんのおうちの、長女……として生まれて、勉強は小さなころからよくお出来になったけど、大学進学どころか高校進学も危なかったの――もちろん、おうちの経済的状況による理由で、ね。


 どうにかこうにかで、優秀な成績を収めて、学費のいらない特待生として高校に入ったのはいいけれど……。

 ネコさんが高校二年に進級するときに、親御さんだか、だれだか、とにかく生計を主に立てていたひとが倒れてしまったらしくってね。


 ネコさんは高校に通い続けることを諦めようとした。


「どうせ、セーラー服なんて大嫌いだったし、ちょうどよかったと思ってる」だなんて、ちょっとそこだけ文体を崩しておどけたように、自伝の本には書いてあったけど――強がりよ、そんなの、強がり。そんなこと、……読めば、私たちのだれだってわかったわよ。


 そして、高校二年になることを諦めて、中退しようとした……でも、高校の先生の熱烈な説得で、学費はかからないし、辞めることだけは、やめたらしいの。でも妹や弟たちの生活費が、かかるでしょう。何人もいて。猫さんが、稼ぐしかない。だから高校に通いながら、新聞配達とか、ファーストフード店の定員とか。工場や清掃のバイトとか、なんでもかんでも、やっていたらしいの。

 とんでもなく忙しい毎日だった、って。

 これもネコさんのご本に書いてあったわ、



 当時は、いつもマスクをして、お古と言っても幼い弟妹きょうだいさえほしがらないような、むしろ触れるのさえ避けるような、小汚いTシャツとジーパン姿で、暮らしていた。

 そして、なるべく人とかかわらないでよさそうな仕事を選んでいた。


 ……そういう仕事は、もちろん、向いているひともいるし必要な仕事だともネコさんは慎重に丁寧に判断していたけれど、でも、すくなくとも、それはとても若かったころのネコさんのやりたいことではなかった。

 ネコさんは、できればそのまま、勉強し続けたかった。

 セーラー服は大嫌いでも。せめて、学問で身を立てたかったんだ、と――。



 ……そうやって毎日惨めな自分、

 ……もう、自分が女であることも、貧乏であることも、

 いや、ほんとうは人間であるんだってことさえ、社会のみなさまに気づかれませんように――そう祈りながら、




 って。




 ……だからね、世界大学の樹立は、ネコさんに大きな希望をもたらしたみたいなの。

 ネコさんは、大変な生活のなか、厳しい選抜試験を乗り越えて、そこの最初の学生に選ばれたんだから。

 優秀である、その理由だけで――ネコさんは、輝かしい大学生活を送りはじめた。




 はずだった。

 そんな希望の地で、いきなり、……レイプをされたのよ。


 希望の仲間と思っていたひとたちによって。

 おまえは、女だし、貧乏だし、

 ――人間じゃないんだって、





 たらいまわしのように犯され続けながら、上げたくもない声を上げさせられて、そう言われた気持ちになったって、ネコさん……言ってた。

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