むかしばなし(7)当時の法律では、うまくいかなかったの。

 そこからは、あっというまだった。雪だるま式、みたいに――。




 社会のみんながみんな、ジェンダーのことに興味をもつようになって。

 世論を、世間を味方につけて。そして私たちみたいなひとりひとりの個人的感情も味方にしていたネコさんは、

 やがてはメディアで、シリアスな話題について、シリアスに語るようになった。


 ネコさんが、深刻な被害者として、メディアで露出しはじめる。社会に、それまで以上の影響を与えはじめる。

 それは単に時間の問題だった。あのひとは、語る言葉をもっていたのだから――。




 ……驚いたのがね。

 ネコさんは、やっぱり男らしい振る舞いもできるんだってこと。



 有識者としてお堅いニュース番組に出ているときとかは、スーツをばっちり着こなしていた。

 声のトーンも、抑え目で。……あのひと、地声が高いから、それでもどうしても女性みたいな声にはなってしまっていたけれど。



 それまでのフリフリピンクのアイドル装束を、スパッと脱ぎ捨てたわけではなかったみたいだけど。

 アイドルの仕事のとき以外は、その服を見ることはけっしてなかった。……ネコさんは、そのへんも、自分自身で厳密に分けているようだったの。

 そして、ネコさんは、アイドル、ネコとしての仕事を、ファンが失望しない程度のゆるやかな速度で、でも確実に、減らしていっていたようだった。




 ネコさんは、スーツを着ているときにはかならず、自分のことを、ネコ、ではなくて、高柱猫ですと名乗った。

 高柱、猫さん――そのお名前を、当時の私たちのいったいどれだけが、……秘密の宝物の呪文みたいにそっとつぶやいたのかしら。




 そして、ネコさんのロリータ衣装より、スーツのほうが当たり前に見かける日常になったころにね――。

 ……ネコさんは、ついに、行動を起こされたの。





 自分をレイプしたひとたちを、法的に訴える。





 ――さあ、大変よ。

 だって世間も世論も、ネコさんの味方。

 みんなが涙した。その涙が、嘘っこだって、ほんものだって、関係ないの――みんなが猫さんのために泣いた、ということが、だいじなの。




 ……ネコさんは華麗な手腕で、粛々と、訴える準備をはじめた。

 みんな、社会のみんな、ネコさんのその個人的で、でも個人的というにはほんとうはあまりにもパブリックな裁判の成り行きを、見ていた。

 すごいのよ。興味をもった外国だかどっかの映像監督が、ドキュメンタリーまで撮りに来たんだから。――そのおかげで、ネコさんの真剣な横顔を、当時私たちはだれだって見ることができたのよ。



 ……でもね。

 世間は、世論はあたたかくても、そのときにはまだ、社会はネコさんにとって正しいものではなかったの。



 みんな、言った。法律家、弁護士、裁判官、そのほか有識者のかたがた。

 たしかに被害者には同情するけれど、

 もう、その時点で五年以上も前の、しかも証拠もないレイプ事件で、裁判で勝つのはおおよそ不可能ではないか――って。




 それでも、ネコさんは、粛々と準備を進めた。





『かならず、勝ちます。僕をあんな卑劣な目に遭わせたやつらを――』





 ……ゆるさない、と。

 その、さくらんぼみたいな口から、――ほんものの憎しみの声が溢れるさまを見て、私は、いつでも……感情をつまらせて胸が苦しくなって、うめいていた。







 ……準備も、むなしく。

 ネコさんの裁判は、失敗した、……やっぱり五年以上前の証拠のないレイプ事件は、いくらネコさんとはいえ、社会は、裁くことができなかったの。

 そう。裁くことがね――できなかったの。




 ……ネコさんは、崩れ落ちて嗚咽を漏らした。

 その様子も、しっかりと映像監督さんが撮っていてくれた。


 きゃぴきゃぴしていたアイドルのときには涙を流したことなんかなかったのに、

 スーツ姿で、地に両手をついて、呆然と……はらはらと、泣き続ける。





『僕を、あんな目に遭わせたやつらを、どうして殺してはいけないんだろう。

 こんな面倒な手続きなんか、いらない。社会さえ許すならば、僕は自分の手で決着がつけられるのに』




 映像監督が、まるで一枚の絵画みたいに、その瞬間を撮っていたの。

 裁判所の前。背景のように押し寄せているマスコミ。光の透ける曖昧な曇り空。そのなかでただひとり、――ネコさんに至近距離で寄ることを、許されていた映像監督のカメラで。




 ネコさんは、絞り出すように、顔をぐじゃぐじゃにして、語っていた。――ほんとうの言葉というものを。





『殺したいよ、殺してやりたいよ、ねえ、……僕はどうすればいいの?』





 まっすぐで、純粋で。

 どこまでも、ひたむきな。


 その言葉。

 その感情。

 そして、その論理。


 そこにあるのは、ほんとうのことだけ。

 嘘のことは、ひとつもないのよ、ネコさんには、――あのひとには。




 いつのまにか社会人になっていた私は、そうやって、ただ、胸をうたれた。







 そして、社会じゅうが、それを見ていた。

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