敵ではないのに、味方なのに
「ふむ。歩ききったか、この歩数を」
生物学者、高柱寧寧々――ネネさんは、いつものちょっと汚い白衣姿で、くるりと研究室の椅子を回して僕たちを向いた。
その手には、歩数計が握られている。……ネネさんに対して、高柱第二研究所に対して、いやもっと正確に表現するならばオリビタの開発者たちに向かって、けっして誤魔化せないように精密な細工的プログラムのなされた――人間未満を、ヒューマン・アニマルを人間に戻すときのための歩数計。
「だいぶ、しんどかっただろう?」
南美川さんは僕の腕のなかでぐったりとしている。けれどもどうにか、うなずいた。両腕でこうやって思い切り支えてあげないといまにも背中ごと身体が溶け切ってしまうのではないかと思うくらい、このひとの身体も、そして心も、たぶんいまとても疲労している。……疲弊している。
「……人間換算で一万歩」
ネネさんはまるでひとりごちるように言った。
一万歩。
最初にネネさんに説明を受けたときのように、成人男性ならば二時間ほどで歩ける距離だというし、そのこと自体は間違ってもいなかったように感じる――ただそれは、僕がひとりですたすたと歩いた場合だ。僕には南美川さんがいる。いや、それどころか、歩くことの実際の主役は南美川さんなのだ。
ヒューマン・アニマルの、とくに人犬の身体は、人間の立場からはちょっと容易に想像がつかないくらい、全身に負担を強いられる。たしかにいままで二十分ほど外で散歩をするだけで、南美川さんはずいぶんとぐったりしていた。
無理があるのだ。人間と、動物。ほんらいは別の存在であるはずのそれらを、あえてくっつける設計にして、無理やりひとの身体をつくり替えているのだから――そしてそのしわ寄せは、けっきょくのところ、ヒューマン・アニマルになった者の身体そのものにダイレクトに降りかかる。すさまじい負荷を、理不尽にも、背負うことになる。一生、永遠と思えるその生涯において。
南美川さんは僕の腕のなかで耳も尻尾も萎れさせている。たぶん、……心も。
そんな深刻な空気を気にしてくれたのか、ネネさんはハッと口の端で軽めに笑った。
「どうだった、初日は。おい、まさか春はこの距離がしんどかったなんて、言わないよな? だとしたらそりゃそこそこの運動不足だ」
それは――ネネさんなりにこの場をほぐしてくれようとしている、そんなユーモアなんだって、理解はできたのだけど。
「……僕、実際に、運動不足ですから……それなりに、しんどかったです」
僕の声はやっぱりどうしても不機嫌そうに、かたくなに響いて。
ああ。――話したいことは、こんなことではないというのに。
「これ、ほんとに、毎日やるんですか」
「当然だ。二週間はやってもらうぞ。休みなく、十四日間だ」
「……南美川さん、もつんですか、それで……」
「もたせてもらわねばオリビタの投与はできない」
「ほんとうに、それは必要なことなんですか?」
僕はネネさんの目を、おそるおそるうかがうように、でもできるだけ、僕のできる限界まで精いっぱいの範囲と角度で、まっすぐと見据えた。
「それしか、そんなことしか、方法はないんですか……?」
「そんなこととはなんだよ春。私たちが編み出した最上の方法なのに……」
「もっと、ほかに、やりかたの可能性とか……」
「それがいちばん成功確率が高いと説明したろう。ほかのやりかたを試してもいいが、けっきょくヒューマン・アニマルの調教された本能を用いる以外の方法による結果はことごとく――」
「……ふたりとも、やめて……」
南美川さんが苦しそうに、呻くようにそう言った。
「……だいじょうぶよ、わたしなら、ねえシュン、歩くから、毎日毎日、歩くから、あなたがいるからいくらでも歩けるもの……」
「……いや。でもさ。南美川さん。そんな――」
「ネネさんも、ありがとう、……わたし、……信じてる、わたしが苦しめば……痛い思いをすれば……それさえ乗り越えれば……人間に……人間に、戻って……」
「南美川さん、もうやめよう」
こんどは僕が、きっぱりと言った。
しかし南美川さんはなおも――苦痛の合間に漏れ出るのであろう言葉を。止めようとしない。
「シュン……ネネさんはね、わたしのこといじめてるわけじゃないの、……いじめたいわけじゃないのよ、たしかにね、施設でもたくさん、たくさん歩かされたけど、違うのよ、意味が違うの、わたしのために、……わたしがもっとよくなるために、だからほんとにね、わたしのために、やってくれてるの、……わたし、歩くわ、どこまでも、あなたのために、わたしのために――」
「春。幸奈の様子も本日の結果もわかった。もう今日は幸奈を連れて帰れ。……明日のノルマは人間換算で一万千歩。ノルマが終わったらすぐさま、記録した歩数計を持って、滞りなくまた私のもとに来るように」
「……言われなくても、そうします」
ネネさんは挨拶もせず、くるりと背中を向けてカルテらしきものにアナログペンでなにやら書き込みをはじめた。
僕もろくにお辞儀すらせず、南美川さんを抱えて、部屋を出た。
「……ネネさん、さよなら、またね」
まともに挨拶をしたのは――南美川さんだけだった。
ああ、わかっている。わかっているさ。……ネネさんは、敵ではない。けっして。むしろ味方だ。ヒューマン・アニマルになれば普通は人間に戻ることなんてけっしてできない社会において、出会えたことがほんとうに貴重すぎる、そして南美川さんを人間に戻すという意味では、圧倒的な、僕たちの味方だ。だから。わかっている。わかっているのに。――この苛立ちは抑えられない。
受付のひとにも声もかけず、一直線に高柱第二研究所を後にした。
だんだんと鳴れてきた猥雑で騒々しい地下街。
タクシーを拾って乗り込むと、僕は――南美川さんを抱いたまま、そっと目を閉じた。
現実を少しでも遮断することくらいしか、いまの僕がやりたいことは、なかった。ああ。これを。……あと、十三日。
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