勇気

「春。無駄だとわかって、あえて訊くよ」



 ……無駄とわかっているなら、訊かないでほしいのに。



「あんた、どうして、いじめっ子だったこの人犬を、かばうんだい。……そこまで自分のリソースを犠牲にして、人間に戻す手伝いなんてしてやろうとするんだい」



 南美川さんがなにかを察知したのか、ふっと僕の膝から降りて、僕の隣に控えた。ああ。ほんとうに。……南美川さんは、いい子だ。



 僕は、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。

 言うのは、怖かった。でも、答えは、決まっているのだ。



「それは、姉ちゃんにも、言えない……」



 そう、――その答えは言えないという、答え。

 姉だから、ではない。姉でも、だれでもだ。家族にだってだれも、母さんにさえも、たとえば僕なんかによくしてくれる橘さんや杉田先輩や、ネネさん、そして南美川さん自身に対してさえも――それは、けっして。

 だって、あまりにも。……それは、あまりにも。



「でも……僕は、南美川さんを人間に戻さなければいけない」



 それは、南美川さんがこんないい子なんだと、――ほんとうにすばらしいひとなんだと、知る前から……むしろ僕がちょっと露悪的にかつてのいじめっ子に当たっていたときから、ずっと、変わらず、……前提として、決まっていることなんだ。


 いや、厳密には変わらずというのは言い過ぎだ――南美川さんのことを知れば知るほど、……当初の僕の意図や目的や動機と重ねて、もっともっと、僕は南美川さんを人間に戻さねばならない必然性が出てきたのだから――。




 ……どちらにせよ。

 ほんとうのところを認めてしまうと、そんなのはもう、どっちでもいいんだ。僕の意図も目的も動機も、そんなのは、……もはや南美川さんを人間に戻すことの、おまけでしかない。もし、達成できたら……僕はありがたすぎるおまけとして、僕自身の個人的なそれを、天からの贈りもののごとく両手を受け皿にして受け取ろうじゃないか。




「僕は、南美川さんを人間に戻す。……姉ちゃんや、家族のみんなには、迷惑をかけることもあると思う。ごめん。でも……しばらく、時間をください」




 僕はそのまま、天にひれ伏すように土下座した。




「……なんだい、その流れるような土下座の仕方は。素直に頼んでくるね。嫌だな、そんなの、顔を上げて、気持ち悪い」



 ……流れるようなこの動作は南美川さんたちに教え込まれたからなんだけど、まあ、いまそんなことを姉に言う必要はない――悪趣味なもの思いに耽るのはあととしよう。

 僕は、顔を上げた。……姉が、変な顔で、僕を見つめている。



「いいよ。もともと、許さない気もない。……だいたい、あんたが自分でなにかを頼んでくるのなんて、はじめてじゃないか。それも、母さんならまだしも、あたしに向かってもなんて――はっ、嫌われてる姉に直接頼むほどのことなんだねえ」

「……べつに、嫌ってはないけど……」

「ほんとうかい? だとすれば、嬉しいねえ」


 ぜんぜん、……信じてなさそうだけど。

 ああ。怖い。っていうか、煩わしい。めんどくさい。黙ってしまいたい。このままなら、なんとなくことも落ち着きそうだし。あとはただなんとなく、なんとなーくで場をおさめて、なんとなーくでいい感じで帰ってもらって――。




 ……くい、と裾が引っ張られた。

 見ると、南美川さんがズボンの裾を口で引っ張って、真剣な目で僕を見上げていた――もう言葉を介さなくても慣れでなんとなくの意思疎通ができるようになってしまった僕は、小さく笑ってしまった、うん、そうだよね、このままでいいわけない、か――怖いし、煩わしいし、……なによりめんどくさいけど。

 でも、南美川さん。――あなたが、そうしたほうがいいって目をしているのならば。




「……べつに、僕は、姉ちゃんが嫌いなわけじゃない」

「じゃあ、家族全体が嫌いなのかい」

「だから、……なんでそう、刺々しいのさ。そうじゃなくって……苦手だっただけだ」



 するり、と。

 言葉は、驚くほど簡単に、僕の口から滑り出た――長年凝り固まっていたはずの、どうしようもなかったはずのものが。




「……僕は家族に迷惑をかけた。それに、僕だけが、不出来だった。……馴染めなかった。居心地が、悪くて、……嫌われているのは僕のほうだろ……」




 指先が、あたたかい。見れば、……南美川さんが優しく、僕の右手の人差し指を舐めてくれているのだった。

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