南美川さん、いましゃべった?

「くーん……」


 南美川さんは犬らしく鳴きながら、僕の胸をカリカリと肉球で引っ掻いてくる。甘えるようにこちらを見上げてくる顔は、その実、僕のことをとても心配してくれている。

 ……たぶん、全力で引っ掻いても、人間に痛みなんてほとんど与えられないふにゃふにゃの、ケモノの手。その爪だって、僕が短く整えてあげているんだ――。



 ……そう思えばちりっと感じる、昏い、とても後ろめたい本能的な快感を、そうだよ、姉のいる前なんかでは、感じてしまいたくないのに、なかったのに――ああ、と僕はまたしても無意味に天井を仰いだ。……情けない、めんどくさい、散々だ、こんなのは。



「……はー。アンタのワンちゃんね。空気読めないねえ」



 空気が読めないなんて古臭い言葉を言って、姉ちゃんはがくりと首ごとうなだれた。電力が切れた人形みたいで――やはり、姉は、こういうところがぎこちないのだ。……僕と、おんなじで。

 姉はわざとらしく頭に手をやりながら、また人形みたいな直線的な角度で、顔を上げた。



「ま、犬だからしょうがないんだけど?」



 ……南美川さんは、犬じゃ、ない。

 そんな一言さえ――でもいま言ってしまえば、僕のほうがおかしいのだ。

 倒錯的に、なってしまうのだ。……この社会では、あきらかに。




 南美川さんはそんな僕の気持ちさえぜんぶ汲んでくれたような顔をしてこっちを見上げてくる。……哀れまれている、のだろうか。いや。それ以上に、優しい顔で――。




 姉ちゃんは南美川さんを指さした。




「その子、名前、なに」

「えっ、南美川さんの名前?」



 失言だともちろんすぐに気がつく。ああ。もう。僕は。……これだから。

 でも、南美川さんがそのときやたらとガリガリと爪を立ててきた――いいわよ、いいのよシュン、そのまま突き通しちゃいなさいなんて、そんな声が――僕の頭のなかではクリアに再生された。



「……えっと、うん。南美川さん、っていうんだ」

「はあ? 犬に、さん付け?」

「……海だって拾ってきたウーパールーパーに突然変異ちゃんって名前をつけてたじゃん。あれとおんなじ。海の名づけセンスを参考にした」

「はあ、まあ、たしかにね、そりゃそうだ。アンタらさすがきょうだいね」



 ふむふむ、と姉ちゃんは妙に納得している。やはりこのひとを説得したり、……ごまかすのは、海のことを持ち出すと、いいらしい。

 姉ちゃんは、海にはほんと甘くって。ときに、判断力も鈍っているような気がするから――。




 ……いちど言えてしまえば、僕はすらすらと嘘のつける性質たちではある。




「で? アンタなんでその、南美川さんちゃんとやらを飼いはじめたのよ。突然変異ちゃんにも、平凡進化ちゃんにも興味なかったくせに」

「いや、僕は、水生生物はほんとうは苦手で……気持ち悪くて……」

「それ海に言わないでよね。あと平凡進化ちゃんは両生類だから。アンタほんと面倒見なかったもんねあの子たちのね」



 ……いや、まあ、どうでもいいけど。いろんなことをごまかせるなら――こんな雑談も、まだする気になる。



「さみしくなったのかねえ。だって、春、アンタ彼女なんていないでしょうね」

「……いないよ、そんなの、僕にできるわけが……」

「そ、よかった。そんなところに女物の服を散らかしてさ、とうとう自分の弟が倒錯者になったとこを見せつけられた気がしたんだけどね」



 なにげないようでいて、――それは、たしかに、詰問の続きだった。



「……いや、これは、南美川さんに着せていただけだから……」

「ふうん、まあいいけど? ペットと、その……そういう……なんだ? その手の関係になる、っていうのは、けっして、禁止されてもいないし倒錯的ともされないからね。そのためにつくられた、ってとこあるじゃない、ヒューマン・アニマル制度なんて……。アンタもいちおう男だ。ま、それくらいは、人間生体的にしょうがないと思うわ」



 姉は、あらためて座りなおした。……体勢をもっと崩して、あぐらをかく格好になる。



「ほら、ね。ねーちゃんも、もう結婚する気ないしさ。ねーちゃん、人間のことうまく愛せねーんだ。理解もできないし。でも、あたしには家族がいるだろ。父さんもいれば、母さんもいる。海なんて仕事だけは一人前だけど、まだ子どもみたいなもんだからね。あたし、このままでいいんだ。このままが、こんな時代、こんな世の中においてマシな生きかたなんだよ。ねえだから、春、アンタも――」





「シュンはそんなひとじゃないもん!」




 どこかわずか自己陶酔して気持ちよくしゃべっていたはずの姉が、ぎょっとして南美川さんを見た、でもぎょっとしたのは僕だっておなじだ――尻尾も耳もこわばらせて、いまにも立ち上がってしまいそうな体勢、僕がやっと腕でのおなかを抱きかかえて抑えている、でも、でも、――南美川さん、いましゃべった?


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