直線と曲線

 泣いている南美川さんを、ただひたすらに抱きしめて、受け止めながら。

 そして、僕は思考する。




 ……でも。

 思えば僕は、考えてみたことがあっただろうか。


 僕が家に帰ってこないと生きられない南美川さん。

 ごはんもなく、お水もなく。冷暖房を操作することもできず。また、外部に助けを求めることは、不可能で。だれかに見つかってしまって飼い主がいないと判明すればそれはそれで、……悲惨な状況へ逆戻りすることが確かな、南美川さん。

 調教施設やペットショップに戻るくらいなら、このひとはまた……死んだほうがまし、と思うだろう。事実、僕が僕だとわかる前、南美川さんにとっては素性も知れない人間のひとりとして、このひとを買ったとき、このひとは、まったく躊躇せずに死のうとした。


 僕にはわかる――あの卵の黄身みたいな光に飛び込んでいこうとしたときのこのひとの動きは、直線で、迷いなどカケラもなかったと。生への希望や未練なんて存在しなくて、痛みへの恐怖も麻痺していて、ただ、ただ苦しい日常にあえぐだけの現状が、つらくて、苦しくて、飼われてしまえばペットとして生きることは確定する、

 ……そう、あの冬樹家のポチと呼ばれる末路を経た元人間みたいに、心までも無理やり獣のかたちに押し込まれ、何年も、何年も、何十年も、もしくは三桁に至るまでの時を――出口のない牢獄として、過ごす羽目になる。



 僕もじっさい、南美川さんと再会するまではそんなに知らなかったのだが。再会してからは、さすがにいろいろ調べた。

 ……ヒューマン・アニマルは、僕が思い込んでいたように外科的な方法で四肢切断をするのではなく、細胞操作で手足や尻尾や耳を動物のそれにしていく。

 そしてもっと調べて知ったのは、そのさいには脳はもちろん、内臓やその他の身体細胞にも手は加えないという事実だった。


 より、残酷だ。それならいっそ、脳も動物にしてあげたほうが、きっと、……いくぶんかは。あるいは寿命を操作してあげて、短命にしてあげたほうが、まだ、……いくらかは。


 思考だけは人間のときのまますくなくとも最初ははっきりとして、内臓や味覚は人間のときのままなのにマズいペットフードを食わされ続ける、もう生きててもペットとしてしか価値がないのに通常の人間とおなじだけの時を過ごさねばならない、自分がもし人間のままだったら歩めただろう人生をつねに隣で見続けなければならない――。



 ……それは、どれだけの、絶望か。



 ……僕も、死のうとしたときはある。

 それこそ、南美川さんたちにいじめられていたときには、毎日、……毎日だ。



 自身を畜肉処分にしようとしていた。情報なら、たくさん調べた。調べれば、調べるほど、……僕は、うっとりとした。自分自身の死にざまは、これしかない――クローズドネットのそんな書き込みに影響され、鼓舞されたようになっていた気になっていた。

 その匿名の書き込み者はこう言っていた。


 ――無価値で、無意味な俺たちが、最期ここでなら輝ける。

 立派な人間として、死ねるんだぜ? ……もう、人間でなくなるかもしれないと怯えなくていいんだ。

 永遠に。



 ……永遠に。

 そう。


 これからもっとコストのかかるであろう自身の低価値を自覚したことによる、決定的な価値。

 最期は――自身の価値を正しく把握し自身を処分するという勇気ある決断をしたことによって、社会全体から感謝するという旨の感謝状と、ひとりの低価値者がコスパの悪い生存を中断し社会全体のコストを押し下げたとして、若年であればあるほど大量に付与される社会評価ポイント、僕が生涯過ごしてもほんらいは顔も直視できないような社会的立場のあるえらいひとたちが何人も立ち会って、なんとそのひとたちに、満面の笑みでぱちぱちぱちぱちと拍手をされながら、見送られる。

 まるで最高の舞台の主人公のようにブラボーと拍手喝采を浴び続けながら、王さまみたいな椅子に座らされ、

 死の方法も事前に選べる、もっとも苦痛のない数種類のタイプから選べて、薬物投与系だったらすてきなデザインの注射で、植物性自然毒物しょくぶつせいしぜんどくぶつだったら可憐な花々に囲まれ、意識消去系だったら大好きなものの写真や好きだったひとの笑顔の写真を意識の最後に見つめて、

 そうやって――すくなくとも客観的にはまったく苦痛なく、

 英雄のように、

 人間として、死ねる。――死後一分間は、とてつもなくえらいひとたちは彼または彼女に向かって拍手を続けることが、高柱猫の定めた法律では定められているらしい。



『無能は、無能であることを自覚した時点で、有能になるんだよ』



 と、いうのは――彼が三十歳のときに残した語録の、ひとつだという。



 ……僕も。そうしようと、思っていた。

 自分の無価値を自覚した価値だなんて、矛盾したような功績によって、世話になった家族へ社会評価ポイントとして還元して、最後の数日間だけ酒池肉林とか形容される通りに、楽しく、楽しく過ごしまくって、最期はきれいに死んでやろうと――。



 ……そうは、思っていたけれど。

 でも。――その考えの甘ったるさにほんとうの意味で気づきはじめたのは、……母さんに頬を張られたあの日を除けば、思えば、南美川さんと再会してからなのかもしれない。



 ……僕は。

 たしかに、つらかったけど。

 自分自身が、……人間にふさわしくないと思うほどには、踏みにじられ、馬鹿にされ、自身の気持ち悪さと無能力を、人間としての劣等を、いや、……ほんとうは人間未満なんだよってことを、あそこまでも骨の髄まで叩き込まれた、けれど。




 ……外を、車ならいくらでも走っている。

 自動操作性の高い車しか走れない道路もあるけど、……すくなくとも僕の実家の偏差値帯ではそうでない車も混じっていた。……ちなみに、僕が実家を出てから暮らしている地域はもうわずか偏差値帯は下がるので、あの雨の日の夜もトラックが走っていた、わけだけど。




 そこに、飛び込めたかな。

 死ぬことだけを優先するのなら、僕には、いくらでも……チャンスはあった。



 ……たぶん、だけど。

 無理だったと、思うんだ。




 僕は、自分以上の絶望は存在しないと思っていたけれど、あそこまでまっすぐ死にゆくことはできなかったと、思うんだ――。

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