受け止める
南美川さんは、ずっと泣いていた。
僕はそのあいだに、片づけを済ませた。
水洗トイレに流して毛布を洗濯機にかけて部屋に戻ると、南美川さんは床に這いつくばったまますんすんと泣き疲れていた。
そのかたわらに僕はしゃがみ込む。従順な従者のように。
「……南美川さん、終わったよ……」
「ん……」
渋々だけど、返事をしてくる。……泣くというのも体力が必要で、そうずっとはしてられないものなんだ。
僕にもとても身に覚えがあるな――悲しくて、悔しくて、恥ずかしくて泣いても、やがて涙と体力は尽きる。
枯れ果てて、あとはちょっと力を入れればポッキリ折れる弱くて哀れな小枝に、なるしかない。
剥き出しの背中を、撫でてあげる。
怪獣にひと撫でされたかのような、その傷跡をそのまんまなぞるみたいに。
「……そんなに泣かなくてもいいのにさ……」
「……だって、だってえ」
南美川さんは、うっく、と嗚咽を漏らす。
「……嫌なのよ……わたし……ひとりで、できるのに……」
……それは、どうかな。
そうは思ったけれど僕は、南美川さんの背中を撫でる手の一定のペースを、速めも緩めもしない。
ただ、ゆるやかに……ゆったりと……撫で続ける。
「……そうやって、したいのに……」
ああ、――たぶんそっちが本音だね。
しばらくそうやって背中を撫でていて、そしてどれくらい経ったのだろう。
ウワン、ウワン、とオールディな洗濯機の立てるオールディな騒音。……いつ、新式のマイクロ型洗濯機に買い替えようか。ひとりだけだったら――たぶん家具を整えようとか新調しようとか、思わなかったはずなんだけど。
南美川さんはふっと顔を上げた。
涙やら鼻水やらでべちょべちょぐちゃぐちゃな顔で、こっちを見上げて苦しそうに微笑んだので、僕は自分の手がべちょべちょぐちゃぐちゃになるのも厭わず指の腹や手の甲でその顔を拭ってあげた。
「……あの、ごめんね、シュン」
「なにが?」
「いっぱい、泣いちゃった。また、いっぱい、八つ当たりしちゃった……」
「いいよ。南美川さんはそういう状況だろう? いまさら、気にしないでよ」
「……あの、言い出せなかったのも、わたし、わたし、……怒られたくなかったからじゃないの、嘘、ついてて、……ごめんなさい、ごめん、ごめんね、でも、不安なのね、いつも」
南美川さんは照れているようにも見える顔で、尻尾を斜めに大きくゆっくり揺らしはじめて、僕に、必死に話しかける。
話しはじめる。不器用な響きで。どもりながら。もどかしそうに。それでも、真摯に。
僕は南美川さんの背中を撫でる手の動きを、止めない。
「あなたが、いまはいてくれるからいいけど、いつ、……いなくなるんだろうと思う。いなくは、ならないわ。知ってるの、知ってるんだけど、……信じ切ることができてないのね。わたしの実家での、……あんなこともあったし、もし、……もしわたしの家族がわたしとあなたを引き離そうとしたら、とか……。
……そうじゃなくてもね。
あなたが、お仕事に行くときとか、ひとりでお買いものに行くときとか。
わたし、不安なの。
あなたが、もし、帰ってこなかったら」
南美川さんは、そこで言葉を飲み込んだようだった。……たぶん、言おうとしたことを、言い直す。
「……帰ってこなかったら、わたしはひとりね」
南美川さんは、肉球から飛び出て緊張するように固くなった爪を両手それぞれ差し出して、僕のズボンの裾に、ひっかけた。
「ごはんももらえず……どこにも行けないで……ただ、朝と昼と晩と、あなたを待って……」
つう。――もうやんだかに見えた涙は、ふたたび南美川さんの右目から、あっけないほどにこぼれ落ちた。
「お腹空いて、喉渇いて、寒くて……それで、ひとりで死んでいくの」
僕はふっと南美川さんを撫でる手を、止めた。
「死んでいくの……だから」
……だから? と、僕は南美川さんを促した。
「――お掃除じゃなくて、いっしょにいてほしくて」
勝手なことを言う南美川さんの表情は、真剣、そのものだ。
「だから……言えないの……言えなかったのよ……汚しちゃうこと、汚れちゃうこと、ちがう、ちがうの、……いっしょにいてよお……」
そうしてまた泣くことをはじめて、全身で僕にすがりついてきた。僕は、その全身を包み込むように全力で受け止める。受け止めるしか、ない。――僕がいなければぜったいに生きていけないこのひとの不安も、絶望も、僕は……ほんとうの意味で理解できることは、ないのだから。共感も共有もできない、だから、だから、――ひたすらに受け止めるしかない。
そして――それはそれとてやはり洗濯や掃除、……それにいまは休暇中だけどやはり、仕事、
そういうのはしないとどうしても生活が成り立たないという事実を――いまのこのひとには呑み込めない事実をも、僕は、……このひとの背中越しに抱き留めるように受け止めるしか、道はない。
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