プロフェッサー
「……だめっ、やめて、やめてよお、いまじゃなくても、ね、ねえそうだよ、いまじゃなくたっていいじゃない、遊ぼうよお、わたしずっと待ってた、いい子で待ってたのよ、だから遊んでからにしようよ、いま、いまはやめてよお、あ、だったら、シュンが休んでからでもいいじゃない、ずっとお掃除してたんだから、わたし、わたし、そのうちに――」
「掃除は、します」
僕はため息とともに、南美川さんの言葉をシャットダウンした。……自分のいまの言い方が母さんや姉ちゃんと似ていて、自分でも一瞬すっとなにかが底冷えた、けど。
南美川さんはもともと大きな目をさらにまんまるくして、僕を見上げている。――なんなんだ。
……ただ、早く、遊びたいのか。
それとも僕が掃除をしていることに飽きてしまったのか。
……まあ、人犬という立場になってしまったから、ある程度は仕方のないことだと僕も心得ているけれど。
けどそれをすべて聞き入れていては生活が成り立たないのもまた、事実で――。
「ほら。出てきて」
「……や、やだあ……」
南美川さんは僕から離れるとこちらを向いたままじりじりと後進して、ぎゅっと毛布を掴んだ。そのまま、小さなお腹にかき抱く。
ケージの奥から、毛布を抱いて目を見開いてこっちを見てくる南美川さんは、まるで幼い子どものようだった。いや。――小さい子どもみたいだからこそ、人犬という存在なのか。わかっている。わかっているつもりだ――けども。
……だから、白い毛布が、もはや白とは呼べなくなってきてしまっているんだってば。……黄ばんでいる。
「……南美川さんがね、毛布をだいじにしてくれているのは嬉しいんだけど」
なにせ、僕が買った。買ってあげた。
「掃除はね、しなきゃなの。しなきゃなんです」
また、……母さんや姉ちゃんに似た言いかたをした。いま、僕は。
僕にもだし、でもその対象はたいていの場合は僕なんかの十倍くらいは、海に向けてだった、わがままで聞き分けのないときに母さんや姉ちゃんはこうやって丁寧語で言い切った――。
「だから、します」
「――やだっ!」
……まだ、駄々をこねている気か。
僕は深い深いため息をついて、立ち上がった――なにかが、……なにかがこのあいだからおかしいんだよな。
病院にいたときは、まだよかった……僕と南美川さんは、生きていたことを、生き残れたことを、あのとんでもない監禁生活から抜け出せたことをともに喜びあった……毎日毎日、隣であたたかく眠れることさえ毎晩いちいち嬉しくて、毎日三回も出てくるまともな食事が摂れることが嬉しくて、昼下がりにいっしょに本を読んだり動画を見ていることがとても安らいで、僕と南美川さんは、いつでも、そっと微笑みあっていた、そのはずだったんだ、
……休みがはじまって、そのあともそんなふうに暮らすのかなって漠然と思っていた、でも、違った、……思えば病院では僕と南美川さんの生活の面倒や世話はぜんぶ介護プロフェッサーや介助プロフェッサーのひとたちがやってくれていたんだ、彼らは橘さんがソーシャル・プロフェッサーと呼ばれるのとおなじように、プロフェッサーつまり経験と知識のシビアな基準をくぐり抜けたプロだ、僕が入っていたのはネネさんの懇意という大きな国立病院だったので、プロフェッサーのなかでもさらにその専門性の基準となる職業的クリアラインの高いひとたちばかりだったようだった、
あまりにも親切になんでもやってくれるから、思わずこちらがすみませんという言葉が口をついて出てきてしまったことさえあるのだけど――なぜ謝るのですか、と真正面から切り返されてしまった。僕よりはすこし年上の、長い黒髪のきれいなお姉さんだった。……病室のたんすの整理をしながら、顔だけ斜めにこちらに向けて。……ネコみたいな、強気な目でこっちを静かに見据えて。
『私は介護プロフェッサーで、これが仕事で、これが社会に有用な存在として生きる理由で、根拠なのですよ。社会のひとたちが社会に生み出すプラス。継続的に、完全循環的に生み出せるプラス。しかし現実はときにままならないですね。病や事故で倒れることがまま、ある。そのときに私たちの出番なんですよ。来栖さんも人間であるという以上は社会にプラスを生み出してるはず。そうやってみなさんが生み出すプラスの余剰。それが私たちの収入であり、社会評価ポイントになる。ありがたいことです。循環、それもほとんど完全循環に近い循環、もっともほんとうは不完全循環なのですが、……ああ、すみません、しゃべりすぎましたね。介護の高度に専門的な話が入り込みすぎました。あのですね、だからですね。私たちも、仕事であり、社会の存在理由なんです。だから。――どうか謝らないでください。それは、失礼なことにもなりえますのでね』
……僕は、圧倒されていた。
やはり、プロフェッサーと呼ばれるひとびとはすごい。どれだけの勉強や実務経験を乗り越えて、――そこに至っているのだろうか。
介護や介助なんて、橘さんのやってるソーシャル分野とおなじで、専門性が高い職業の典型みたいなもんだ。
やはり、そういうものを乗り越えたひとたちは、ひと味違うのかもしれないと――僕はそのとき同時に思い出していた、あのペットショップのお姉さん、……これからは人畜産業が安定かなと思ったと語っていた、小柄でかわいらしい、キャップをかぶった、ヒューマン・アニマルのブリーダー。
そう、そうだ。
そうやって、僕たちの社会はたくさんの専門家の仕事で支えられている。というか、専門性が高ければ高いほど、社会にとって有用だと認められるから――ほとんどの人間は、当然の結果としてより高度な専門性を目指す。それにより社会全体の人材が豊かになり、社会もますます発展していくのだと、……発表当時には単純すぎるとからかわれなじられてたという高柱猫の、論理は、結果的には――ほとんどそのまま、現実となってしまったのだ。
……僕も、いちおうは、対Necoプログラムの専門家のはしくれ、プログラマーとなった。社会を構成する、一員と、なった。
だから、……短期になにもできなくても、ああやって一円もお金を払わず、一ポイントでも社会評価ポイントを落とさず、生活の面倒を見てもらって、……治療や療養に、集中することができたのだ。
だが、僕は。
当然、それ以外の専門家ではないし、……そもそも全体的に能力はとても低いことを、自覚だってしている。……だって、そうじゃなけりゃ、なぜ高校時代に劣等を理由にあんなに南美川さんにいじめられた?
ゼネナリティな能力ひとつ取ったって、――つまりどんな人間でもある程度は身に着けるべきだという、家事や仕事や事務作業などをこなす生活上の一般的な能力も、自分ひとりのぶんならともかく、……だれかのぶんまでやるなんてことは、そもそも僕の人生想定には存在しなかったのだ。
……だから。
知らなかったんだ。思わなかったんだよ。――考えてみたこともなかったんだろうな。
人犬とはいえ。
だれかと。ほかの、生きている存在と。
ともに暮らすのが――こんなに大変なんだってことに。だって、掃除ひとつで、……この騒ぎだよ。ひとりで暮らしていたら――ありえないはずの、バタバタじゃないか。
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