それはいいんだけどね、

 ……僕はまたひとつため息をついて、立ち上がって腰に両手を当ててケージを見下ろした。

 ケージのなかからこちらを見上げてくる南美川さんは――やはり、小さい。

 小さな生きものに……なってしまって、いる。


 ケージの上の天井はいまはもともと取りつけていない。さっき掃除機をかけるときこのひとをここに入れたのとおなじで、このひとをここから出すのも容易だ。……執念かってほどに全身で毛布を抱きしめている南美川さんをも、だから僕はひょいと持ち上げることができた。結果的に、毛布ごと。ふわふわの毛布はけっきょくのところそんなに重たくはないし、――それはこのひと自身の身体もおんなじ事情だ。


「ごめんね、ちょっとどいてもらうね、南美川さん」


 そう言って、抱きしめる毛布ごと南美川さんをベッドの上に置いた。

 南美川さんはきょとんとしたような顔をして、でもすぐに毛布は手放して、思い切った様子でベッドから大きく飛び降りて、

 よいしょと腕まくりした僕の隣に、すがりついた。


「やだ、やだ、やだよお、やめてよお」


 短い犬の前足とやけに爪の尖った肉球で僕の腕を軽く引っかいたり叩いたりする南美川さんを、はいはいといなしながら掃除に取りかかる準備をする。

 南美川さんは興奮してしまっているのか、僕のまわりを忙しなく移動して尻尾をやたらと振りまくってやだやだやだとずっと言って、とても……騒々しい。


 うるさいだけならまだしも、こううろうろとされると……危ないし、掃除もどうにもうまくいかない。パソコンデスクの下にでも、つながせてもらったほうがいいのだろうか。でもそれは南美川さんは嫌がるし、泣いてしまうかもしれない……だから僕は結果的にはいはいひょいひょいといなしながら、それでも着実に準備を進めていった。そもそも、ケージの掃除など、……そう難しいことではない。機能的な、つくりなのだし。



 長方形のケージは、オールディな解体式だ。まずは壁となっている部分を倒していく。短い辺を金具から離して畳む、反対側の平行な辺の部分も畳む。そうすればあとはちょっと力を入れるだけで長い辺のほうも折り畳むことができて、南美川さんのおうちだったものは、あっというまに平べったいただの格子になる。


 あらわれたのは、床の部分だ。当然ながらここだけは格子ではない。ベージュ色のプラスチック系素材でできている。僕はひとさし指の腹で床を撫でた。ちょっと、埃と、……よくわからない焦げ茶色の小さな汚れが付着した。まあ……僕のせいだ。しばらく、掃除をしてあげられていなかったから。

 南美川さんはこの床を感じながらいつも暮らしているはずだ。僕のベッドでいっしょに眠るときもあるけど、それは南美川さんがいまだにどうしてもどうしようもないときの、特例の対処法みたいなもんだから。ふだんは、ここで暮らしている。プラスチック系のこのチープな硬さを感じながら、僕がオープンネットショッピングで買ってあげた毛布のなかにまみれるようにして入って、小さな身体をさらに自分で折り畳んで、尻尾はたらんと垂らして……寝ている。

 南美川さんの尻尾はときどきケージの外に出てしまっている。金色でくるりと丸まったふわふわの尻尾が外に出ているさまは、すこしおもしろい。そして、かわいい。……そんなことを言ったら怒られてしまいそうだから、本人に言ったことはないけれど。


 ……さて、と毛布を見てみれば、こちらもだいぶ汚れていた。

 黄ばみや、茶色系の汚れ――まあなんの汚れかは、突っ込んであげないほうがいいんだろうな。

 南美川さんも、女の子なのだし……それに家に来たばかりのころは、まだいろんなことが怖くて、脅えて、そういうこともうまくできなくて……よく、ケージのなかでも失敗してしまっていたのだから。



 僕はふう、とため息をついて、またしても立ち上がって解体した南美川さんのケージを見下ろした。



 ……まあ、だからさ、べつに、そのことじたいはいいんだよ。仕方ないし。

 そうじゃなくてさ。僕が求めてるのは、こう、なんと言ってあげればいいのかな――。


 ちなみに……南美川さんはいまもすがりついてはくるが、僕がケージを解体しているうちにいつのまにか泣きはじめてしまって、掃除をしていたからかまえなくて放っておいたら、やがて動きが鈍くなって、いまではすんすん鼻をすすりながら伏せて僕のくるぶしのあたりを肉球でぺちぺち叩いてくるだけだ――。



「……あのね? 南美川さん?」

「――だからごめんって言ってるじゃない! わ、わたし、そう言おうとしたのに、あ、あなたが、シュンが……!」



 ――ああ。出た。南美川さんの決め台詞、というか、こびりついてしまった精神。

 だから、ごめんって、言ってるじゃない――ああ、でも、なんか。なんどもなんども聞いたことのはずだけど、すこし懐かしいな。そうか。そうだよな。言わなくなったわけじゃないんだ。なくなるわけじゃないんだ。どんなに南美川さんがほんとうは人間でも――犬に近づいた精神は、そう簡単に人に戻ってくれるわけではない。たぶん、そういうことなのだ、と……僕は僕の足元にすがりついてこっちを見上げるこのひととの、視線の距離を、こんなにも体感しながらそう思っている。

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