朝のお風呂(5)身体の価値

 そのあとは、のろのろと身体を洗った。


 風呂用のざらざらしたタオルを手に取り、石鹸をこれでもかというほど泡立て、

 のろのろとした手つきで、とても弱い力で、しかしそれでいて執拗になんどもなんどもなんどもおんなじところにタオルのざらついた表面を痛みぎりぎりまで滑らせ――僕はいつでもそうやって、身体を洗う。



 ……また、変なことを考える。

 たとえばふつうでまともなひとりのひとがいたとして、そのひとは風呂で身体を洗うにはタオル派だったりするとして、そうだとして――ゴシゴシゴシ、と豪快に、ゆえに身体全体の汚れを落としていける感じで、きっとそうやって身体を洗う――んだろうか。


 僕はどうにも手つきが緩慢となってしまう。

 ゴシゴシゴシだなんて元気なモノではない――せいぜいが、こすり、……こすり、と情けない音が申し訳なさそうに擦れていくだけだ。

 ……もちろんさ、ただでさこんな僕の身体なんだし、汚れとか残すわけにはいかないんだけどさ。わかっている、わかっているから、……妥協策としてはこの洗うノロさと力の弱さでも汚れが落ちるよう、繰り返し、繰り返しと意識してタオルを動かすことくらいだ。


 ……この、僕ののろのろとした手つき。

 四十二度のシャワーを出しっぱなしで煙にまぎれたまま、僕はとりあえず首からスタートし、そのあとじょじょに、……タオルを持った手を下に移動させていくわけだけど。



 社会的清潔さと個人的な少々の身体的快適さにつながる手順を踏んでいるだけ、わかる、わかっている、――わかっているから僕はきょうものろのろと身体を洗っている。かくも。



「……嫌なんだよな、こんなの……」


 だって、こんなの。

 こんなのは。――僕の、身体は。


 なんの、意味があるっていうんだ。あるいはなんの価値が。




 通常であれば。

 ふつうであれば、まともであれば。

 ……身体というのは、なんだかたいそう価値のあるものなのだろう? そしてときには、だいじな意味だって。



 内面を、想像させ。

 じっさい抑えきれない内面の価値が、外見上に溢れ出る。


 はしゃいでふざけて、手を伸ばし。

 愛しく思えば、手をつなぐ。


 衣服で、覆い隠し。

 もちろんおいそれと露出はしない、

 このひと、と決めたひとにのみ――曝け出す。



 ……底辺の僕なんかはただ風の噂に聞くのみだけど、一般には、愛しい相手の身体というのは愛しく思えるものなのだろう。

 一挙一動が、遺伝子レベルでは人間はほとんど変わらないなんてうそぶかれた時代を経てもなお特別な顔の造形のディテールが、いちいちの仕草が、身体が、そこにある身体が、

 とても愛しく思えるのだと――そしてお互い相手の尊厳と自由意思を確認し、尊重したうえで、……それら人間らしさを守るためのシンボルでもありシンプルな機能でもある衣服を、剥がす。




 人間性のヴェール。

 ……花嫁は、花婿にのみ、その顔を覗かせるという――ジェンダー・オールディな逸話を思い出す。



 ……なら僕の身体には価値がない、




「……価値がないなら、意味もないのに」


 曝しても、愛おしまれるどころか慈しまれることさえなく、ただ、……嘲笑されおもちゃにされた僕の身体。

 ……全裸……。



『隠すほどのモンかよ!』



 ……はい、わかってます。南美川さん。

 隠すほどのものでは、ありません。

 価値の低い僕の身体を優秀者のみなさまの公衆の面前で曝け出したって、……それは、ケモノが着衣をしないこととおなじ。


 わかっている。……わかっています。

 僕の身体にも、人間性にも、なんら価値はなかったのだと。

 あるいはあなたがたを前にすれば、――そんなのはアリンコミジンコ未満の価値だったのだ、と。



 だから、ほんとうに、……なんの意味もないんだけど。

 ほら、さ。……価値のあるかたの、価値のある身体ならともかく、さ。

 僕は。

 なんで、僕は。


「……なんで、毎日、きれいにしなくちゃいけないのか」


 ほんとうに。――なんでなんだろうな。

 左手で身体の重心を支えて立って、タオルを右手に自分自身を清潔にする、石鹸の泡を素肌に付着させ汚れを託す、そうすることでたしかに身体の清潔は保たれる、けど。

 僕が、僕なんかが、――いくらそんなことをしてもほんとうは不毛なのに。



 ……僕はそこではっとわれに返り、



「……なんでなんだろなあ……」

 わざと馬鹿みたいに明るい節で、歌うようにつぶやいた。思考が進みすぎて限界を突破してしまいそうなときには、いつもこうする。自分で対処する。自分のこと、くらいは。

 これもじつは、……高校のときに身に着けた処世術のひとつ。そうでもして紛らわせねば――僕は、もう、……心が生きていけなかっただろう。



「ほんと、ほんとに、――なんでなんだか」



 ……思い起こすことはといえばいつも通り。




 ああ。いいなあ。――いいなあ。

 ごめんなさい、南美川さん。僕はこの期に及んでなお。


 ――おそらくあなたにとって裸というものの価値がまったく違った銀縁眼鏡のおない歳の学年主席が、たぶん妬ましくて、しょうがない。

 どうしてだよ、って――僕の身体は単におもちゃだったくせに。そいつの身体と、なにが違うんだよ、って、




 僕は、僕は、問い詰めたい、――でもできるわけないからきょうは僕も自分自身の無価値に、耐える。

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