朝のお風呂(4)キツい
上を脱いでしまえば、あとは流れ作業で下を脱いだ。
もちろんもう、鏡など見ない。つとめて、見ない。……そういえば僕は脱衣所ではいつだって洗面台の鏡を意地でも見ない、不自然なほどに視線を逸らすようにしている、まるで、見てしまえばそこにバケモノがいるからとでもいうように、
実家にいたころからそれはそうだ、いつからだろうなどと一瞬でも思えばそんな思考は愚かすぎて――当然、高校二年生以降のことに決まっているのだ。
べつに自分の身体に見惚れるような趣味はそれまでだってもともとないけど、……でもここまで頑なに、けっして見てはいけないものとして洗面台の鏡を扱うということも、なかったはずだ。
一気にトランクスまで脱いでしまう。……過剰だとは思うけど、僕は南美川さんをお風呂に入れてあげるときには水着の下にさらにこうやって下着を、着ている。
洗面所が窮屈でも不便でもあえて風呂場に置いてある巨大な洗濯カゴ。いやむしろ、洗濯機の中身そのものの規模のカゴの置ける構造の部屋を部屋選びのときにあえて選んだ。……僕が抵抗なく着替えができるのは、いくら他人の訪問してくる可能性のゼロ前提だった自室とはいえ、やっぱり部屋のなかでトイレの次にクローズドな風呂場だったのだから。
たしかに自分の部屋ではある程度半袖半ズボンや靴下を脱いでも過ごせるようになった、……でもやっぱりそれとまったくの全裸というのは、ほら、やっぱりさ、……過酷ないじめを受けた経験者としては、ちょっともう一生残ってしまうような、えずくような感覚が、あるわけだから。
そういうわけだから、脱いだ衣類を間髪入れず左手で洗濯カゴに放り込んで、そのときにはもう右手は風呂場のドアを押し込んでいた、……畳み込まれるドアが開き、さきほどまでは南美川さんとふたりで過ごしたこの風呂場は、……こんどは僕のためだけに、あっけなく醜い姿の僕さえも受け入れる。
……すぐに全裸の自分を湯気でぼかしてしまいたくて、まだお湯のたっぷり溜まっている湯船に浸かるよりも当然、先に、……僕はシャワーの温度を四十二度にまで上げて上限まで栓を捻った。
シャアアアア……というシャワー特有の音と、四十二度ゆえのもくもくとした湯気が、……多少、僕の裸を、覆い隠してくれる。
もちろん、部屋に受け入れるだとかそんな意思があるわけない。そんなのは、錯覚だ。
でも――いつからだろう僕にはたしかに、……無機物や、あるいは人工知能のほうが、ずっと、ずっと、……親しい。
人間は、怖い。
人間としゃべるのも、とっても怖い。
人間に、自分を見せるのは、もっと、……もっと、怖くて。
でも、僕の部屋は、そしていまこんな僕を個々人の家の風呂場にさえついた、猫の目、と呼ばれる極小の丸い映像記録デバイスからモニタリングしているはずのNecoだって、
僕のことを気持ち悪いとか言わない、醜いとか言わない、……隠すほどのモンかよとか、言わない、
ただそこにある人体として受け入れてくれている――そんな気がして。
いや。ほんとうに。……気がする、だけだよ。そんなのは。
受け入れてくれているだなんてこの期に及んで甘っちょろい――それは、ただの僕の願望じゃないかよ。わかっている、……わかっている、んだけど。
……だから、僕はきょうも。
ザアァ……と、熱いシャワーを、全身にかけながら。
シャワーヘッドとタイルの中間の、どこでもないところを、五分間くらいみつめてしまう。
……風呂に入るためには、もちろん服をすべて脱ぐ必要がある。
たとえば球体のなかに入り、おもに粒子によるさまざまなウェーブを当てることで風呂以外に身体を清潔にするという画期的な機械家具も存在しなくはないが、僕の収入と家の規模には、あまりにもありあまる。
身体を拭くとかの選択肢もあるが、……引きこもりの最後のほうの時代で体力もなくて動かない身体ながらも、どうにかこうにか衛生観念を取り戻そうと、……自室のベッドの上でえんえんえんえんと全身の垢をこそげ落としていた時代でもあるまいし、……身体を拭くというだけでは、社会人として最低限必要な衛生は保たれない。そんなことくらい、僕だって知ってる……。
だから僕はいまでも、毎日、風呂に入るために服を脱ぐ必要があるのだ、
「……ふつうの、まともなひとならさ」
ひとりごとさえ、湯気にくぐもる。……ありがたいよな、まあ多少な。
「……風呂だけで、こんな……」
そう。風呂なんて。あくまで、日常のごく一要素であるだけのこと。
だからきっとふつうのまともなひとは、毎日こんな思いはしていないのだ。
どころか、リラックスするひととかだっているのだろう?
……一日の疲れを、落とせてしまったりするのだろう?
でも、僕は。
僕はな。……ふつう未満で、まともには足りないから。
最低でもたっぷり五分間はどこでもないところを見つめなければいけないくらいに、
その程度には心の準備が必要なほどに、
「……キツいんだよな」
――日常生活上の必要に駆られてさえも、僕はいまだに全裸になるのがほんとうにキツい。ああ、だから僕はやっぱりいまもたぶんほんとは、ずっと――ふつうでも、まともでも、……人間にも足りていない、単なる一個のどうにもしようがないそんな存在であり続けているんだよ。
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