ネネさんの説明(1)約束してくれ、無理はしないと
しばしのあいだ、沈黙があった。……言葉が、僕と橘さんとネネさん、それぞれに染み込んでいくための時間のようだった。そういう雰囲気が、たしかにあった。
口を開いたのは、ネネさんだった。
「……さて。では春、ここからは私も同席するぞ。
おまえにな――説明をせねばいけないことが、ある。……亜音斗に電話呼び出しまで喰らっちゃったしさ」
冗談めかした言いかただったが、橘さんは、ぴくりとも笑わなかった。
緊張してるのが――僕でさえ、見て取れる。やっと、すこしずつだけどわかってきた、……これは怒っているわけじゃないんだ、って。
「……幸奈を、人間に戻すプロセスのことだ」
僕の左斜め前に座るネネさん。
背中を曲げて、両肘をテーブルについて頬杖をつく。
長くてバサバサの黒髪が、まとめられてもいないから、そのままテーブルの上に落ちてくる。よれよれの白衣の胸のあたりで、髪の毛は一本一本が乱れて複雑な紋様みたいになる。
たぶん、ネネさんでさえいま、――緊張している。
……どういう、ことなんだろう。
あのふたつの書類があれば、南美川さんは人間に戻れるんじゃなかったのかな。
南美川さんが自分でも言っていた、なんだっけあの、……ああ、夢の細胞、可逆細胞、高弾力性細胞。
そういうのを用いて、遺伝子ファイルを元に生物学的に人間の手足を復元させて、耳を人間のものに戻して、尻尾は取り除いて――あとは、……社会評価ポイント履歴書の書類をどうこうすることで、南美川さんは、……名実ともに人間に戻れる、とか……。
……ここまで思って、僕は愕然とした。
ああ。僕は。――書類を手に入れなきゃ、って目的ばっかりが先走って。
具体的にどうするかなんて、なんだ、こんなにも考えが追いついていなかったのか、と――。
ああ。ああ。……僕の悪い癖。
やっぱりこういうところで僕は、……自分の頭が劣等であることを、だれのせいでもないのに、自分のせいなのに、思い知らされるのだ……。
ネネさんは、こんどこそは重々しくその口を開く――
「……まずは、春。南美川幸奈の、遺伝子ファイルと社会評価ポイント履歴書を入手してくれたこと、感謝する。
たいていどんなケースでも、ヒューマン・アニマル堕ちした人間の書類を揃えるのは関係者にとって容易なことではないが――春の場合は、ちょっとあまりにも苦労しすぎたな、……ここまでの非倫理的事態が起こるのは、正直、かなりのレアケースと言っていい。……監禁、暴力、辱め。……いまどきそんなことをやるご家庭が存在することに、私はびっくりだが……」
まあそれはいま議論しても仕方ないな、とネネさんはうんざりするかのようにして、言った。
「しかしキミは、……機転を利かせて。
どうにか切迫した状況から抜け出し――ファイル情報も私のクローズドネットに送ることで、確保した」
「……あ、その件については、いきなりごめんなさい、驚いたんじゃないですか――」
「そりゃ、驚いたさ。でも幸奈もいろいろ一生懸命説明してくれたし、……そうでなくてもあんなの送りつけられたら、状況はすぐに把握できるだろ」
「南美川さんの遺伝子ファイル、読めたんですか……あの複雑そうな情報群……」
「ん? 遺伝子のインフォメーションのことなら、読める読めない以前に見たらパッとわかるよ。なんなら日本語なんかよりずっと、
ああ、そうだ、……そういえばこのひとは、ほんとはとてもすごい生物学者でもあるんだった。
……なんか、とても気さくだし、ついつい忘れがちになっちゃうとこでもあるんだけど……。
「……状況がわかる、ってのはさ。ファイルの内容じゃなくて。
春が、そこまでしてきたんだ。そりゃ緊急事態だ、いつのまにやら私のクローズドネットIDを勝手に抜いてたことも、不問にしてやろうと思ったよ」
「あ、えっと、……ごめんなさい、やっぱりわかっちゃうんですね、それも……」
「ああ。わかる、わかる。――ちなみにだが、いつのまに抜いたんだ? アレ」
「……Necoに、頼んで……あの、帰ったあとですけど。……ネネさんの研究所の場所はわかったから、……それを手がかりに、Necoに探ってもらって……」
ネネさんはちょっとだけ、笑った。
「なんだ、そんなの。訊いてくれれば、教えたよ。
……春はいつでも、Necoを頼るんだなあ。人間は、嫌いかい?」
「……嫌い、じゃ、なくて、……その……」
僕が、人間を嫌いなんじゃないんだよ。そんな。おこがましい。
……劣等だ、劣等だって、僕のほうを嫌ってくるのは。
いつだって、社会の人間のひとたちのほうじゃないか――。
……なんて、思ったけど、……さすがにそんなのは幼稚なふて腐れだ。
僕は、話を逸らす方向にもってくことにした。……話を戻す、ともいうかもしれないけれど。
「……それで、南美川さんは、人間に戻れるんですか?」
「ああ。書類を確認したところ、不具合はない。……社会評価ポイント履歴書なら亜音斗にも確認してもらったから、なおさら、問題ないだろう」
橘さんが、こくりとひとつうなずいた。
だがね――と、ネネさんは、ほんとうに、重々しく。
「地獄が、待ってるぞ。これから」
だから、とネネさんはこんどは、やけに優しい声で。……お姉さん、みたいに。
「私は、正直なことをこれからおまえに話す。……ヒューマン・アニマルを人間に戻すという作業の、真実のところだ。
これは書類を揃えた相手にしか話さないことにしている――ヒューマン・アニマルという元人間の書類を揃えるということは、当然容易なことではない。けど、……じっさいに人間に戻すプロセスに比べれば、あまりにも容易い。
それは、春。……残念ながら、おまえも例外ではない。南美川の家では大変だったろう。しかし……あんなのはまだ、序の口だ。……これからやることに比べるのであれば」
容易い――? 序の口――?
南美川さんの実家に乗り込んで、……あんな目に遭ってまで、息も絶え絶えにファイルも自分たちの脱出も、結果的に、――確保したことが?
「……つらければ、いつだってやめていい。なんなら、私の話の途中で、やめますと言ってくれてもかまわないよ。私はそうしたらもう、しゃべるのもやめるから。……アンタたちとの協力関係も、そこでポシャン、だ。
むしろここでひと言でも、やめます、と言うヤツには無理だ。それだったら私は、……今回の話は、その瞬間、すべてなかったことにするね。
私が自分の無性者の社会を実現させるために、ヒューマン・アニマルから人間に戻すときの細胞を喉から手が出そうなほど切に求めているのは、純然たる事実だが、……それだからと言って安易にそれをオススメするほど、私はマッドサイエンティストには堕ちていないつもりなんだ。……いいね? だから、けっして無理はするんじゃないぞ。
私だって、もう――これ以上多くの悲劇と絶望を見ることは、望まない。だから、約束してくれ。無理をして承諾するくらいであれば、……途中で放棄することを。いいな? ――春」
……はい、と僕は、ゆっくりとひとつ、うなずいた。
だって、そうするしか、そうするしか――ない。
「……いい子だ」
ネネさんは、ニマリと笑った、それはたぶんネネさんのいつもの決めゼリフみたいなもんで、ニマリとするのだっていつもの黒猫みたいな表情で、でもその顔はこれから話がはじまるというのにすでに――疲労の色を、ありありと帯びていた。
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