橘さんの説明から、亜音斗、そしてネネさんの説明へ
「さて、それだと来栖くんの休暇は、公的制度と会社の精度を合わせても、ひと月と二十四日――来栖くんが南美川家で非倫理的事件に巻き込まれた11月23日からのカウントだから、フルに使っても、来年の一月の中旬までくらいしか、もたない」
「……え、でも、そんなに休めれば、僕はほんとに充分で――」
「高柱寧寧々さんは、充分でないと判断してらっしゃるの。それに、……あなたのためだけの時間では、ないのよ。それはさ、くるちゃん――あなたのほうが、よくわかってるんじゃないの? だって、あの子を人間に戻すために――ここまでのことをしたのでしょう」
「……でも、時間が必要って、どういうことですか、……南美川さんを人間に戻すための資料は、僕はどうにか揃えられたんじゃ……」
南美川さんの、――南美川幸奈の、
遺伝子ファイルと、社会評価ポイント履歴書。
……ネネさんに言われた資料は、僕は、きっちり揃えたはずなんだ……。
時間が、必要。
それは、そうかもしれないと思う。僕は生物学のことはほんとにぜんぜん詳しくないけれど、細胞をいじったりとか、……細胞的手術とかなにかするならば、それはそれなりの時間がかかるんだろうし。
でも、そのときに僕がそこまで長期に会社を休む必要性って、なんだろう。
もちろん、僕だって南美川さんのそばにいてあげたい。南美川さんがもし望むのならば、いままでまったく手をつけてなかった選択休暇を有給休暇として申請して、たとえば、そうだな、……南美川さんが人間に戻るまでのあいだは、実際勤務が週四の生活とか、そういうふうに生活をプラニングしたって、まったくかまわない。
……もちろん、僕の給料と稼げる会社への貢献度、そして社会評価ポイントは、多少低くなるだろうけど。多少そういうのが減ったって、僕はもちろん南美川さんの気持ちや落ち着きのほうが、だいじで――。
……でも、さ。それは、程度問題なんだ。
二か月とか、それ以上も休んでしまったら――いくら会社がわがそれでいいと言ってくれたって、業務は遅れるし、嫌な話だけど、……そのぶん僕の収入も評価ポイントも、その時期は停止してしまうことと同義だと思うんだ。
……まったく自分のためではない、って言ったら嘘だよ、それは。
僕は、……こんなどうしようもない人間だし、二年も引きこもりをして家族にも迷惑をかけて、社会にも負債を負っている。
同年代のしっかりしたひとたちよりも――事情が切実であるのは、仕方ないんだよ、そりゃ……。
それに――僕が、……僕自身がひとりでやってけるそれ以上に、しっかりしていなければ。
……いざってときに、南美川さんを、僕の生活全体で受け止められないじゃないか……。
だから。――だから。
「……南美川さんは、たしかにさみしいだろうけど。
僕は、仕事をします。したいです。いえ、させてください……働きたいんです、できれば最短の期間で復帰したいんです。ご迷惑であるとは、……わかってます。でも、僕には……仕事が、必要で……」
会社員として、仕事をすること。――こんな僕が、それでも人間でいるための条件。
「……もっと早く、復帰を検討してもらえ、……いただけ、ないでしょうか……お願いしますっ」
僕は、頭を下げた。
ボサボサのままの前髪がたらりと落ちてきて、ああ、……そういえば僕はいまだによれよれの入院着だったなとか、そんなどうでもいいことをまたしても思い出したりしていた……。
しん、と静まり返る。でもどこか遠くから、……ガラガラゴロンと、なにかマシンの動く音。病院の、生活のための……マシン、なのかな。
「……顔を上げて」
橘さんが言うので、僕はそのようにした。
橘さんは、……なんとも言えない変な顔をしている。難しい顔、とも言い換えられそうだ――。
「……ねえ。高柱寧寧々さんから、なにも説明を受けてないの?」
「あ、えっ、はい……? 説明、って?」
「だから、あなたがこれからあの人犬の
橘さんはブツブツ言いながら、ピッ、と小型通話デバイスを起動させた。
ソーシャル・プロフェッサーらしくアナログに、小さな箱型のそれを耳に当てる。数秒してつながったのだろう、話し出す。
「お疲れさまです、橘です。はい。あの、いま面談中ですが。彼、なにもわかってないです。あの、その、……わかるだろうとかじゃなくってですね。……こちらに来て、きちんと説明してあげてください」
手短な通話。ピッ、と橘さんは電源を切った。
そしてほう、とため息をつく。
……なんだろう。苛立っているようにも見えたけど、なんか、違うような――。
「……あの、変なこと訊いても、いいですか?」
「なんですか? どうぞ?」
「橘さんと、……高柱寧寧々さんって、知り合いなんですか?」
「……そうね、答えはノーでもあるけど、イエスでもあるかしら。来栖くんが入院したことをきっかけに、お見舞いのときに応対してくださったのが高柱寧寧々さんだったんだけど、あのひと、私と――」
ガチャリ、とドアが開いた。
女性にしては長身でボロボロの白衣とバサバサの長髪の生物学者が、ニマリとそこで微笑んだ。
「年代も近いうえに、なんと出身大学がおなじだったんだよなあ。……もっとも
橘さんはファイルをおでこに当てて顔を隠して、……まるでなにかを堪えてるような様子だった。
「……下の名前で呼ぶのはやめてください、ネネさん……」
「なんでだよ、いいだろ。亜音斗だって私のかわいい後輩なんだぞ。もっともあのマンモス象さん規模大学、後輩なんていったいいま世間の相対優秀層に何十万人いや何百万人いるのやらだけどな、はははっ!」
僕は思わず、橘さんとネネさんを忙しなく交互に見た。
「……亜音斗、って、えっ、もしかして――橘さんの下の名前なんですか?」
「……あなたは上司のフルネームくらいは覚えましょうね……ああ、でもまあそうね、私がふだん隠しがちなのも、いけないのか……」
しぶしぶ、といった感じで橘さんはファイルを顔の前からどかした、……ちょっとむっつりと拗ねているような表情が、なんだかほんとうに珍しく感じた。あ、僕の上司できっと世代も僕よりは確実のうえの、おとなの女性であるこのひとも、……なんかそういうふつうの女の子みたいな顔もするんだ、って、そんなの、……失礼かな……。
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