橘さんの説明(9)春の説明

「……あの。橘さん、は。僕のことを、ひどく、……買ってくれてるみたいなんですけど」



 なんだかまるで、すでに僕自身が告訴されるべき側でもあるかのようにさえ勢い込んでいた橘さんは、僕がそう言うとぴたりと言葉も動きも止めた。

 苛立ちがそれでも余韻として溶ける細く長いため息を残して、そのまま面談室のパイプ椅子の背もたれに重心を預けたようだった。……それで? と銀縁眼鏡の奥の理知的な瞳が問うている。いいでしょう、話なら聴くよ――とも、言っている。



「僕は、そこまで、大層な人間じゃないんです。今回のことだって、……そんな大層に考えていたわけじゃ、なくて、」



 橘さんはまたしても大きくため息をいた、……でもなにも言葉を言わずにいてくれた。



「……罰するとか、罰しないとか。僕は、そんなこと決められないだけ、なんです」

「そうよね。くるちゃんってそういうとこ妙に気が弱くて、」

「って、いうかっ、」



 ああ、こんどは僕のほうが勢い込んで、――言った声は上擦っていた、ふつう上司に出すべきではないエモーショナル感を出してしまった、――橘さんを真正面から見据える格好になってしまっている僕は、いま、いったいどんな表情をしているのだろうか。


 きっと、きっと、……必死すぎて。

 いっそ、呆然ともして見える表情をしているに、違いないんだ。





「……僕はそんなに、優しい人間じゃ、ないんですよ」





 それは――まごうことなき、僕の本音だった。

 心の底から湧き出ている、……自分を恥じるたぐいの、本音。



「……悪いことをしたひとは、罰するとか。悪いことをされたら、その相手を罰するとか。

 あの、世間のひととか社会のひととかって、みんな、すごいと思うんです、……橘さんもなんですけど、なんかこう、倫理とか、人道とか、いまどきとても重んじてて、すごくって、……だから非倫理的なこととか、非人道的なこととか、そういうのが起きれば、ちゃんとしかるべき措置を取るように、してて……」





 でも、……僕は。





「……僕は、そこまで、そういうことに興味をもてないんです。

 そりゃ、悪いことをされたら、悲しいっていうのはわかる。けれど……」





 じっさい、僕は、――あそこまで徹底的にいじめられた。





「そのときのことは、そのときのこと。

 そのあとのことは、そのあとのことじゃないですか」




 ……峰岸くんにだって言われたんだ、

 僕が南美川さんにいま優しくできているのは、

 南美川さんがもはや人間ではなく、人権ももたない文字通り手も足も出ない、人犬という立場だからなんじゃないか、って――。


 それに対して僕は、熱さをつらさにたとえてみて、

 ……たしかにかつて熱かったのは僕のほうで、でも、いまは南美川さんのほうがよっぽど熱いと思うんだ、って答えたけれども――。




「……南美川さんのおうちでは、ひどいこと、たくさんされましたけど、でも、僕いま、……生きてるし。

 あの家のひとたちも、なんか……いろいろと事情があるんだな、ってわかったし」



 視線も、言葉も、ひどく迷ってぶれて揺れる。



 だから、ゆるそう――だなんて、そんな立派なもんじゃない。

 大層なもんじゃないんだ、そもそも僕の考えることや企てることなんか、すべて。


 ……ほかのひとみたいに、倫理観をまともにもっているわけではないし。

 かといって、裏打ちされた論理だって僕には、なくて――。





「……なんていうのかな、」





 そう、ほんとに、……コレを僕は、なんと表現すればいいのだろう。

 ああ、南美川さん。南美川さんなら、この気持ちを表した文学作品とかも――もしかして、知ってたりする? なんて。そんな、いま、どうでもいいことほんとうにどうでもいいこと、……心のなかで僕は勝手に数部屋先の病室にいまもいるであろう小さな南美川さんに、語りかけて。





「僕は、欠落しているのかもしれない。

 ひとに対して怒ったりとか、憤ったりとか、そういうのがちゃんとできないのかも、しれないです。

 悪いことをされたらちゃんと罰しようとか、……当たり前のことさえも、ろくに考えることができなくて」





 興味がない、わけではないだろう。

 僕だって、いじめのことはずっとずっと覚えていた。いまだって、ずっとずっとだ。


 復讐――も、あるいは歪んだかたちで空想していた、のかもしれないし。

 ……大学生になり、社会人としてとりあえずの第一歩を踏み出した、人間となった僕が、南美川さんともういちどめぐり逢う夢想だなんて虚しすぎることを、復讐、とまで格好いい言葉で表現できれば、の話だけれども――。





「……どうでも、いいのかもしれないですよね。僕は……冷たい人間なんです」








 僕は、話し終えた。

 しん、とする。


 橘さんが、静かな湖面を連想させる佇まいで、僕を見ていた。







「……そう」






 か細いひとことは、……湖の奥底にまで響くような響きをもって、僕の心にも届いて。






「私は、正直、来栖くんは自分のこころに嘘をついていると思う」






 こころ――ああ、そうか、橘さんだってそんな言葉をつかうときが、あるんだよな、そりゃ、人間だ、






「……けど、いまそれを取り沙汰したって、仕方ない。それは上司の領分も、……あなたとかかわるひとりの人間としての領分も、超えるからね。……わかりました。とにかく、……これ以上訴える気はないという意思は、……ソーシャル・プロフェッサーとして、確認をしましたから」




 ひとつひとつ区切って噛み締めるように言ったあと、

 さて、だったらね、と一転してふだんの軽やかな口調になって――橘さんは、ふたたびぺらぺら契約書をめくりはじめた。






「……だったら、それはいまはとりあえず、いい。

 さっさと、次の要件。……来栖くんのこれからの長期休暇について」

「え? ……あ、いや、その、身体も頭ももうだいじょうぶですし、治ればすぐに出勤を――」

「いいえ、そういうわけにはいきません。……高柱寧寧々さんによれば、あなたにはこれから最低でも二か月の時間が必要ということでしょう? できれば、もうちょっと。理想を言えば三か月はっておっしゃってたよね……。

 ……あなた自身の心身の充分なケアと、……あのワンちゃんの子を、人間に戻すための期間も含めて」





 えっ、と僕は声を上げてしまった。……なんだ、それは、どういうことだ、

 そんな話は僕は知らない、――それに、






 南美川さんを、人間に戻すための期間――?

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