橘さんの説明(8)「もう、たくさんだよ」
橘さんは、このうえなく目を見開いた。
信じられない――その顔が、饒舌にそう語っていた。この上司にしては、……珍しいことだった。
「……Necoの出した、結論。あの家庭への、対応。
……そんなのは、あなたのほうが、ずっと知ってるんじゃないの?」
「……いえ。その。……あの、でも。……判断は、Necoに委ねたので」
「方向性を提示したのは来栖くんでしょ……」
「でも、判断をしたのは、Necoです」
そう。Neco。……いまや社会的インフラとして、社会のどこにも遍く存在する、人工知能でもあり、システムでもあり、管理体制でもある存在。
で、ありながら同時に――高柱猫というひとりの人間をベースとした、……価値体系と、判断基準。
つまり、いまの社会そのもの。
……Necoとは、しゃべれる。僕は。
Necoとなら、しゃべれたんだ。なぜか。
最初はただ、食いっぱぐれなくて、自立もできる進路を探していただけだった。
Necoは、たまたまお手軽なだけだった。……いまだドカタとも揶揄されうる通り、人気もそんなに集中してない。
水色着を着る技師を選んだ姉ちゃんではないけれど――僕も、結果的にそういう専門性を選んだ。
つまり、……ひとからそんなに尊敬や羨望の眼差しを受けるわけではないが、かといってだれしもができるというわけではなく、社会がいまダイナミックに動いているかぎり、確実にその一部の臓器として必要な――Necoっていうのは、そういう専門性なんだ。
でも、僕は、……はじめてみてやっとわかった。
僕は、人間とはうまくしゃべれない。
でも……Necoとなら、なんでだか、……しゃべれるんだ……。
「……Necoに、お願いした結果を、知りたいだけなんです。僕は」
しゃべりながら思い返していた、あの、……奇妙な結果論である南美川さんとの監禁生活のことを、
……そういう意味でも、南美川家の作戦というのはたぶんほんとうに残酷だった。
たしかに、僕の心と記憶を十七歳時点まで巻き戻してしまえば、……僕は、Necoとは、しゃべれない。
当然だ。あのときにはまだ、……Necoと対話するっていうのがそもそもどういうことなのか、想像さえもついていなかった。
次第に二十四歳に戻りつつある意識のなか、僕は必要上それでも最低限十七歳のふりをしながら、
……ひどいことをするよな、と思った。ほんとうに。
そんなのは、僕も、……だけどさ、
……南美川さんが、つらいに、キツいに、決まっているのに。
十七歳の僕ならば南美川幸奈が目の前いれば外聞も恥もなくまず真っ先に、懇願する。
そして十七歳の南美川さんであれば、そのことをよしとして、ケラケラおもしろがりさえしただろう。
でも、……そのあとの、南美川さんは。
人犬に、されて、……そのことだってきっとさんざん、振り返った。
……僕が買って、うちに来たばかりの、南美川さん。
……殺されて、犯されて当然よって、全身でそれこそ外聞も恥もなく喚いたいた、南美川さん――。
……だから、十七歳の僕とだなんて。
もういっかい、めぐり逢ってしまったのならば、……南美川さんがつらいに決まってるのにな、って、
あのひとたちは――それでも、いちおうは、南美川さんの……家族、だったんだろう?
なんて。僕は、僕は、……どこまでいっても、甘いんだ。そうだよ。ツメが甘くて――。
橘さんは、ため息をひとつ吐いた、……それはふだんのものとは違って、いくぶんウェットに僕の耳に響いたのだ、
「……それで、来栖くん。私は、あなたにほんとうに訊きたいことがあるの。……まさかあなたのことだし、そこまでいろいろな可能性を想定して準備を入念にやっておいて、その点においてだけツメが甘いなんてことはないと思うのよ、……杉田もそう言ってたんだけどね」
あ。……奇妙な、シンクロ。
「ねえ、来栖くん、いえ。……来栖春さん。あなたは」
橘さんは、とても言いづらそうだったので……僕はひとつ、うなずいた。
なんのこと、だろうな、……歌うように想う思考は、つまり、僕がとぼけようとしていることを表していた、のかもしれなくて。
「どうして、」
そう、どうして、僕も自問自答はしたし、……あのときNecoにも、問われたこと。
クリアな、ロリ猫の声で。僕には、聞こえた。……どうして? って。
「どうして――あの一家を、罰しようと思わなかったの?」
「……それより、あの。Necoの判断は?」
「南美川家には表立ったお咎めなし、よ。……もっとも、実質的にはNecoの危機管理レベルが五段階も上昇した。多少なりともまたヘンなことをすれば――彼らがあなたにおこなった悪事も含めて、明るみに出ることになってる。……Necoは、そう判断した。けど」
苦虫を噛み潰すように低く低くそう語って、
橘さんは、身を乗り出してきた。ああ。ああ。――この上司が、こんなにここまで感情的に、なるなんて。
「もっと、罰せたはず! あなたが、――あなたさえ彼らのことを罰しようと思えば、いくらでも!
こんな軽い結論になるなんて私も、そして対Necoアクセスプロセス社の経営陣も、憤っている! いえ、私はソーシャル・プロフェッサーとして強く、強くアドバイスをします、あなたが望めばいまからでもさまざまなかたちで裁判をできる。だから、私はぜひ来栖くん、あなたにそれをしてもらいたい。
……家庭の悪意ある密室空間でおこなわれた、あまりにも、……あまりにも野蛮で悪意に満ちた来栖くんへの行為。暴力、監禁、人権凌辱。どれもありえない、どれも程度が甚だしい、ねえほんとなのよ、ほんとうにひどいことなんです、わかってよ、そんなこと、ほんとは知ってるわよね来栖くん、あなたのされたことは、非倫理的、非人道的、私はとても――ゆるせない!」
……僕は、うつむいて。
ひっそりと、苦笑してしまった。
……あの日、南美川さんの実家からの帰り道、ふたりできれいな月を見ながら、……僕は最後にNecoにちゃんと連絡をしたんだ。
そのときに、あのかわいいロリ猫ボイスで尋ねられたんだよな、
――
……Necoにしては、あんな問いかけ、珍しかったんだよなあ、僕のほうを、こんな僕のことをまるで、……気遣ってくれるかのようだった。
はは、ふしぎだよな、……僕なんかが、Necoにパーソナリィに気にかけてもらえるわけなんか、ないのにな。
僕は、だから、……答えたんだ。
だって、月もきれいだったし、……南美川さんは哀しそうだった、から。
――"
もう、たくさんだよ、って――そうやって。
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