橘さんの説明(2)選択有給休暇の使い道
橘さんは親しそうな笑顔からまた真面目な表情に戻って、僕を真正面から見据えた。
と、思ったら、すぐに視線を僕の手もとに落とす。手は膝の上に揃えていたはずなのに、僕は、……いつのまにか両手をテーブルの上に乗せてしまっていたみたいだ。上司との、真剣な話の最中なのに。僕は慌てて両手を膝の上に引っ込めた。
けど、橘さんはべつに、そのことを咎めたというわけではなさそうだった。
「いまって、契約書とか持ってないよね」
「え、……えっと、はい……」
冷や汗が出そうだ――だって、そもそもあの契約書って、僕はどこにしまったのだっけか。クローズドネットのどこかであることは、間違いない……けど、どこのカテゴリに入れたんだっけ。パスコードはつけたんだっけ。ファイル形式は変更したんだっけ。
……読んでない、ということだけでもマズかったのだ。そのうえどこにしまったのかさえわからない、なんていまここで堂々と言えない――。
「そうよね」
しかし、橘さんはあっさりとそう言うのだ。
「……キミのクローズドネットは、いま、使いものにならないし」
あっ――と、思った。
そうだ、そうだよな、……それは、そうだ、僕は――
あのときたしかに、間違いなく、全責任クローズドネット開示要求を、したのだから。
「だいじょうぶです。契約書なら、アナログ媒体で私が持ってる。それを本日は持ってきました」
橘さんはそう言いながらすこしかがんで、隣の椅子に置いたビジネスバッグに手を入れて、流れるようなスムーズな動作で紙の束を取り出した。ペーパー……たしかに、いまどきアナログだ。
「……どうして、紙なんですか……?」
僕は思わずそう尋ねてしまった。橘さんは、キレイな手で契約書を僕に向けて押し出しながら、すこし上目づかいで僕を見てきた。……手、そしてその爪。華奢なところは南美川さんとおんなじで、……ああ、女性の手なんだなあって思うけど、橘さんの爪はツルツル光っているだけで、色はなかった、ネイルとかはしてないってことなのだろうか、ああ、でもそういえば南美川さんが教えてくれたなあ、ネイルグロス、っていうんだっけ、色をつけてなくても、爪をつやつやさせるために塗るものだってあるんだから、と、そうだ、あのときだって尻尾を振って誇らしげに――。
「オールドに見えるでしょう。それに、アナログ媒体はセキュリティ性も脆弱」
「……あ、えっと、はい。そうですね」
「でも、ソーシャルの業界では、いまだに生き残っている。ペーパーやアナログペンの、オールディツールが。いまどき、アナログすぎると思うのは当たり前。とくに、対Neco専門家の、来栖くんにはね。だからね、……いいこと、教えてあげる」
橘さんは、またしても、僕に向けてちょっとだけ笑った。
「アナログは、Necoを中心としたデジタル世界から影響を受けない。ゼロではないけど、ほとんどね。そういう取り決めに、なっているの。
Necoが開発された時代にはまだまだアナログツールは現役だった――」
Necoが開発された、時代。
……つまり、高柱猫が生きていた時代には。
「Necoにより、社会にほとんどはデジタル化されたけれど、……ソーシャル、つまり社会や法律の世界では、アナログ文化はいまだに生き残っているの。デジタルを介さずとも――いろんな手続きが、できるように」
「……それって、どうしてなんですか……?」
「それは、……来栖くんのほうが、よっぽど知ることができるんじゃないかしら?」
「……どうして……?」
「だって、キミは、……稀有なほどのNeco対話能力をもった、対Neco専門プログラマーでしょう」
「……そんな、ことは、」
僕はそのままうつむいて、
ないです、と言おうとした声は、……それさえも僕の自信のなさで、かき消えて、語尾ごとどこかに消えてしまった。
「……はい。それじゃあ、このペーパーの契約書をよく見て。これは、対Necoアクセスプロセス社と、来栖春くんの、お互い対等な立場で結んだ雇用契約書です」
アナログクリップで挟まれたペーパーが、重なって十枚ほど。
契約書の方向は僕のほうを向いていて、だから文字もふつうに読める。……それにしても、文字がびっちりぎっしり、だけど。
「契約書をきちんと読んでいなかったなら、ほんとはここに書いてあることすべていま私と熟読をして確かめてほしいのだけど、それをしていると週フェイズがかりの作業となってしまうからね。それは、また後日としましょう。時間を取ってもらいます」
……週フェイズってことは、五日もがっつりかかるくらいの作業なのか、契約書をぜんぶ読むっていうのは、ほんとうは……。
橘さんは、キレイな手と爪で、ぱら、ぱら、ぱら、と契約書をめくった。……手慣れた手つきだ。ソーシャル・プロフェッサーなんだから、当然なんだろうけど……。
「……うん。あった。ここですね。第191条、選択有給休暇について。……ところで、いちおう怖いから確かめておきたいのだけど、選択有給休暇についての理解はどの程度ですか? 選択有給休暇について、いま私に説明してみてください」
「……えっ、と、選択有給休暇っていうのは、そのー、……被雇用者の正当な権利の、ひとつで、」
……しゃべりながら、僕はさっそく、焦る、……どうしていまさら学生時代に教わった社会科の授業の定義なんか出てくるんだ、ふだんそんなのするっと頭から抜け落ちてしまってるくせに、いったい僕の頭の、どこから、
「……と、いうよりは、えっとですね、……その、」
と、いうよりとかじゃ、……ないんだけど、
「……雇用されてる年数に応じて、日数が決まってて。
その日数を、有給休暇とするか、年度末に一気に給料に換算してしまうか、選ぶことができる、そういう、……制度です」
「おおむね、合ってる。安心した。……だから、これは補足ね。
選択有給休暇――いまからおよそ三十年前に、社会に実装されたシステムです。
旧時代にも、有給休暇というものは存在した。けどもそのシステムは、社会において恣意的であり、また弱者に対してあまりにも正当に機能していなかった。……そこで三十年前のあの
それまでの有給休暇は、給料がフルに発生しながらも本人は休日となる、といった形式でした。
その機能のよいところは受け継ぎつつ、被雇用者は、……休む権利とともに働く権利も拡張された。
また、日数も旧式に比べると、ずいぶん増えました。
雇用一年めでは、三十日。
そのあと一年ごとに十日ごと、追加される。……上限は、あるにはあるんだけど、それはまだ来栖くんには教えられない。開示規定への抵触と、なりうるから。
その日数を、被雇用者の自由な選択とバランスで。
いわゆる有給休暇とするか、それとも日数ぶん掛ける日割りのお給料か。
すべての被雇用者は、……それを選ぶ正当な権利が、ある。
来栖くんはもうすぐ雇用されてからの一年めが終わりますね。
選択有給休暇、……どうしようかって、自分で把握してた?」
「……あ、はい、……僕は一日も、有給のほうは、選択してないので……年度末に、ボーナス的に換算賃金をもらおうと思ってました」
家にいても、たいしてやることなんかないんだし。それだったら、フルに働いて、すこしでもお金を稼いで……社会評価ポイントに、すこしでもつなげたいと思っていた。
弁償。返済。僕が、引きこもりの二年間に、社会に負った負債。すぐに返さないと人間未満になるとかいうものではなくても、――やはりそれらは、僕の全身にいつでも重たくのしかかっているのだ。通勤電車や、オフィスでパソコンのキーボードを叩いているとき、家の近所のスーパーに寄っているとき、それらは、ふっと僕を責め立ててくる――。
「……そうよね」
橘さんは、なぜか難しい顔をした。
「自覚があるなら、よかった。……ただ、私はこれから、またしても非人道的な通告をしないといけないのね……」
橘さんは、またしてもブルーになってるみたいだけど――でも、僕は、そうでもない。
だって。
橘さんのこの話しぶりを信じるのであれば……僕はどうやら、解雇まではされないということらしいから。
もともとが、人間未満でもおかしくない僕なんだ。……そんな僕が、これからも社会にいて、しかも人間としてまっとうにそのまま働かせてもらえる、ってことならば。
「……だいじょうぶ、です、聴きます。……聴けます」
僕は、真正面から橘さんを見据えた。橘さんが、目線でまたふっと驚いたのがわかった。
そのとき僕が思ったのが、ああ、……やっぱり髭くらいは剃りたかったな、ってこと。いくら真面目な態度で話し合いに臨んでみたところで、……そんな最低限の社会性さえ確保できてないというのは、やっぱり、ちょっと情けないことだと思うんだ……。
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