いまのうちに、その記憶を

 ネネさんがなんだかよくわからない怒りかたをしながら部屋を出て行ったあと、僕はいまさらながらこの部屋を見渡してみた。



 広いといえば広いし、広くないと言えば広くない部屋。僕にはちょうど落ち着く規模だった。自分で借りているアパートのあの部屋と、だいたいおなじくらいのサイズ感だったから。

 壁や床や天井は、全体的にホワイトでまとめられている。ただし、目に痛いようなまぶしすぎる白色ではない。ちょっとだけ茶色がかった、目に優しい白色――オフホワイト、と言えばいいのだろうか。旧時代の病院というのは白がまぶしくてまぶしくて、それで気が滅入ったひともいるのだという。僕は入院ははじめてだが、その点では現代に生きていてよかったと思った。


 家具は必要最低限。ベッドに、タンスが大きなものと小さなものひとつずつ、それにちょっと古いタイプの据え置きタブレット型のモニターデバイス。備えつけだろうと思った。家具はすべてシックな茶色でまとめられていて、こちらも目に痛くはない。

 古風なドアノブ型のドアは、さっきネネさんが出て行ってしまったから閉められているが、あの向こうには洗面台やシャワー室なんかもあったりするのだろうか。


 たしかに僕の私物も、枕元から給電しているスマホデバイスくらいしかない。


 天井を見上げてみれば、猫の目――つまり、Necoシステム常駐監視を意味するネコアイランプが点灯している。いまは、穏やかな赤色だ。その色合いを見て、僕は脱力するかのように、ほっとした。



 あとは、殺風景だ。これといった特徴もない。あえて言うならば、まだ人が暮らしはじめたばかりの空間のよそよそしさ、でもいったものがある。僕が会社に就職して、あの部屋を借りて暮らしはじめたときにも、……そうだったけど。

 ああ。部屋、僕の部屋。……いまごろどうなってしまっているのだろうか。もう、撤去されていたって、おかしくはない。私物も、想い出も、手に入れた場所も、すべてすべて、――僕が人間未満とされればそんなのは一瞬にしてゴミクズとなって処分をされる。




 ……でも、この部屋。

 僕は、どうして、ここにいるのだろうか。病院施設、であることは間違いない。ネネさんだって、そう言ってた。



 僕はもう人権を制限されて、なんらかの施設に収容されるまでここで保護されている、とかなのだろうか。でも、そういうわけでもなさそうだった。人権制限が掛かるときには、かならず当人の右腕にリストバンド型保護デバイスを装着させることになっている。


 人権制限は、人間未満の人権剥奪とは似ているようで根本的に異なるものだ。人権制限はあくまでも当人の人間性の保護を目的におこなわれる。たとえば健康体の人間を無理やり鎖でつないだり檻に閉じ込めたられっきとした犯罪だが、身体的な発作や不調によりいっとき病院で管につないだり柵つきのベッドのなかで過ごしてもらうのは、やむなし。そういう考えのもと、人権制限はおこなわれる。


 だから、もし僕がすでに人権制限をされているなら、右の手首にはすでにリストバンドのランプが光って、AI音声で僕がなぜいま人権制限をおこなわれているかという説明を聞かせてくれなければ、おかしいのだ。



 では、人間未満に?

 考えたくなかった。でも、……そっちのほうがまだありえるという、事実。


 人間未満に対しては、いちど決定してしまえば、説明なんかいらない。だって決定した時点で、そのひとはすでに、人ではなくなるのだから。人間未満に、動物に植物に物体に説明はいらない。ただおまえは人間ではないと言って、人権と尊厳を剥奪するだけのこと。そういうことが、ある日いきなりそれこそ青天の霹靂とかいうみたいに、起こるということ、――南美川さんのように。




 ……ああ。寒いなあ。

 体温でも、室温でも、……なくて。

 心が寒くて、冷えきって、そのまま目まいがしてつんのめりそうになるくらいに、怖い、怖い、痛くて、……寒い。





 南美川さんは小さな身体を僕の隣で縮こめて、ぐっすり寝ている。

 なにかよくない夢でも見ているのか、ときおり小さくうなりながら小さな金色の四肢をばたばたとさせる。




「うん。そうだね。……怖いね」



 僕は、南美川さんのいま見ている夢を知らない。ほんとうはいま、なにに怖がっているのだろうってことだって、ほんとは、ほんとうには、……知るよしもない。





 ……でも。





「……怖いよね……」





 僕はどうしようもなくそうつぶやくと、もういちどベッドに横になって、水色の毛布も自分と南美川さんと両方にかけなおして、南美川さんをすっぽり覆うようにして全身を、抱いた、南美川さんの人間の素肌の部分は意外にもあったかかった、寒くて、僕は、……寒くて、身勝手だとは、思うんだけど、ごめんね、南美川さん、……あたためてほしい。




 僕がもうにどと人間的なぬくもりにふれることがこれからゆるされないのだとしたら。

 いまのうちに。いまのうちに、最後、……指先で覚えておきたい。この、温度の。その、記憶を……。

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