説明(6)メッセージは

「……ああ。かけなくっちゃ」



 夜空を仰いだそのままで、ちょっと表情をこわばらせて、

 シュンはそう、つぶやいた、――なにをかけるのかわからないけれど、



「……でも、ああ、駄目だ、駄目なんだけど、……もうちょっとだけ……」

「なに、なに? なんなの、なあに、シュン、ねえ……」

「うん……もう、ちょっとだけだ、南美川さん……」



 ああ、シュン、だめよ、ほんとにだめなのよ、――朦朧としてきていて。




 そんななかでこのひとはなお優しいひとみでわたしを見ながら、

 どうにも視線の位置が妙に懐かしいなって思ったら、シュンは、わたしを見上げてて、



 見上げる? なんで? ――そう思ったのは理屈ではなくて、感覚で。

 そうよ。……だって。



 このひとは、わたしがいじめて、……さんざん見上げさせていたときの、あのひとと、

 地続きで、でも、でも、――変わることができた、



 あのときとは、違うんだから。

 もう、このひとは、――わたしを見上げなくたっていいはずなのに。




 ……でも、このひとは、わたしを自分のおなかに乗っけているから、見上げるみたいな、格好になるのね……。





 そんなそんなどこまでもどこまでも優しいみたいな、おとぎ話の永遠の国みたいなわたしたちの、視線の世界のなかで、

 シュンは、シュンは、――王子さまがお姫さまにプロポーズするみたいに、言うのだ。




「僕はね、たぶんもう、まともな人間にはなれないだろう」




 どっ、くん、と――。




「……よくて、長期の人権制限じんけいせいげんをされて、人間へのリハビリ施設に突っ込まれる、ってとこかな。まあ、それだとまだましだよね。……人権制限者って、小学生みたいな生活をしてるんだろう? それだったらさ、ほら、はは、……毎日、施設の指導者のもとでさ、算数とか、本を読んだりしてさ、工作とか歌を歌ったりしてさ、味気ないけど栄養はちゃんとある給食みたいな食事をもそもそ食べてさ、夜になったら眠ってさ、朝は起こされて、頭が痛いのに体操させられて、また、算数、本読み、工作、お歌、か……そうやって暮らせば……最低限、人間として生きてけるわけだし……」

「シュン、なに、なにを言ってるの、まだそんなの決まったわけじゃないんだし、」


「でもさ。それはいちばんよくて、そうだってことだと思うんだよな。

 ……こんなことをしでかしたうえ、……たぶん、会社もクビだろう。社会評価ポイントの負債ぶんも――もう、難しいと、思う」

「……それ、つまり、どういうこと……?」




「うん。……はっきり言っておくよ、南美川さん。

 僕も――人間未満になると思う」



「……そんな……!」




 やだ、――やだってわたしは必死に肉球をこのひとの顔になすりつけるようにこすりつけ続けた、なんどもなんども、摩擦で熱をもってきたのではと感じるくらいに、





 やだ、やだ、――だってそんなの、





「わたしの、わたしのせいなの?」





 こんな、こんな、――あなたをいじめて、きっとたくさんのひとを傷つけてきて、

 家族にも、愛されなくて、――犬になって当然だったわたし。





 そんな、わたしのためにあなたは、あなたは、





「あなたは、わたしなんかのことを、助けてくれようとしただけなのに」





 ああ、尻尾が、尻尾が、――柴犬モデルの尻尾が大混乱して右に左に揺れまくる、





「……それなのに、あなたが、そのせいで……?」





 ――人間未満に、なるというの?





 わたしとおなじに。

 おなじ立場に。



 人権を剥奪され、動物やモノや、……そんな立場に堕とされて、

 もうにどと人間にはなれない――そんな、そんなのって、




「……ないわ、そんなの」




 なに、と視線で問いかけてくるシュンの表情は、なんでよ、なんでなの、――この期に及んで、とてつもなく穏やかで。





 だからわたしは苛立ったかのような声を抑えられなかった、





「ないわ、そんなのっ、――あなたが人間未満になるなんてありえない!」




「……ありがとう。南美川さん。だったら、お願いも、……できるな」

「……なに、なに、なんなの、言って、言ってよお、あなたのためなら、わたし、わたしなんでも――」






「――遺伝子ファイルの、情報。……あれはおそらくだけど、HiDNAハイディーエヌエー言語だ。言語の存在じたいは、知ってるけど、……僕は生物学はさっぱりだからな……。

 僕には、とても読めなかった。だから、どうかネネさんといっしょにがんばって読み取ってほしい。あなたたちの、……専門だろう?」






「……え……?」

「そして、……人間に戻るんだ」





 シュンはわたしを見ていた。

 まっすぐだった。

 迷いは、なかった。





「僕が、人間未満になっても、南美川さんはめげずに遺伝子ファイルを読み取るんだ。……そのことをいちばん、お願いしたい。ね。南美川さん。――できるね?」




 それは、つまり、自分が人間未満になったって、わたしはどうにか人間にすると言っていることと同義だった。沈みゆく大きな船、絶望の海で、――このひとはこともなさげにわたしをボートに押し上げる。



 わたしのこころはふいに静かになった。

 しんしん、しんしん、音もなく雪が降り積もっていくかのようだった。






 しんしん。しんしん、と。

 ああ。このひとは。






 自分が人間未満になることより、わたしが人間になることを、おおげさではない、単なる前提として優先してるんだ。


 このひとは、やっぱり、そういうひとなんだ。



 ――がんばって。なにがあっても、……人間に戻って。


 要約すればきっとただひとことそれであるだけのメッセージを、




 このひとは、このひとは、……祈りのようにわたしに込める。

 自分自身さえも、いや、自分自身のほうが――これからどうなるかなんて、わからない、――船はただ静かに海底に沈みゆく、そんな気配しかしないのに。

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