説明(2)全責任クローズドネット開示要求

 シュンは息も絶え絶えで、でも、それなのにやけにしっかりとして、そしてとても低い声で――わたしの耳から頭までを、その音でしっとりと湿らせながら、それでいてこころを、震わせていく――そんな、しゃべりかたで、説明を続けていく。


 声が、このひとの言葉が、……わたしの全身に響いて、くるの。



「責任通報の小さなボタンっていうのは、それなりに有名なんだ。ポケットに入るサイズのものや、財布に入るサイズのもの。いろいろなんだけど、じつはいろんなところに売ってるからね。

 それこそ……南美川さんくらい優秀だったら、だれかが持っているところに出くわすこともあったんじゃないかな。

 ほら、責任通報ボタンっていうのは旧時代で言う防犯ブザーとかの延長線上のデバイスだから。いろんなところに出入りする必要のある優秀なひとは……わりと、持っている率が高かったりする」

「わたしは持ってなかったけどね……」

「うん。それもね、ひとによると思うんだ。そもそも、――優秀者なら、ほとんどの場合があとでどうにでもなるだろ。責任通報ボタンが必要なのは、どっちかっていうとあとでなにも揉み消せない、そのくらいの社会ポイントのひとだ。もっとも――僕なんて、その足もとにも及ばないわけだけどね」



 はは、ってシュンは笑った、たぶん、……自分のことを笑った。



 ああ。シュン。あなたはね。

 この期に及んで、根本的にはそうやって自分のことをかなしく思っていて。


 そんなことない、そんなことない、――あなたはピエロでもなんでもないのよ、

 わたしの、ヒーローなのって、ああ、ああ、――助かってくれることが確定していれば、そんなこと言って、お姫さまみたいにこのひとの腕に飛び込めるのに――。



 ……お姫さま?

 こんどは、わたしがわたしを嘲笑う番だった。



 犬なのに。わたし、犬なのに。

 お姫さまだなんて、なに思っちゃってるの――?




 ……でもいま、お互い自分をそうやって哀れんだって、どうしようもないの、

 だからかしらね、シュンはすぐに笑いを引っ込めて、わたしも自分が犬だなんて当たり前ゆえに不毛すぎるもの想いはもう、やめにした、――このひとがいまわたしの力を求めている。




「……それに対して全責任クローズドネット開示要求は、ふつう、ボタンというものはない」

「ねえ、あの、シュン……いまさらかもしれないんだけど、訊いてもいい?」

「どうぞ?」

「そのね、その、全責任クローズドネット開示要求って……なんなの……?」



 わたしの声はおそるおそる、ってしていた。ああ、――いまさらすぎるかしら。

 そう思ったけど、シュンはぜんぜん苛立ったりとかそういうのがなくて……この緊急事態で、このひとはあきらかに焦っているのに、わたしに、わたしに、――それをぶつけてこないんだ、やっぱり。



「知らなくても無理はないと思う。……かなり、穴場の制度でもあるんだ。抜け道というか……」

「責任通報とは、違うの?」

「ああ。とても似ていて……だからまったく、似て非なるものだね」




 全責任クローズドネット開示要求っていうのはね、わかりやすく言ってしまうと――シュンは息のかたちだけでそう前置きした。





「つまり、賭けだ」





「……賭け?」

「ああ、賭けだよ」

「賭けって言ったって、その、あの、えっと……ギャンブルとかとは、違うのよね……?」

「うん。ギャンブルとはぜんぜん違う」

「あ、……そうなの、よかったわ、だって、ギャンブルみたいなものだったら、危なっかしくて危なっかしくて――」

「でも、ある意味ギャンブルなんかよりも、ぜんぜん危なっかしい賭けだよ」

「……え?」

「全責任クローズドネット開示要求っていうのはね、」



 シュンは、もういちど、……そう繰り返して。






「Necoに、すべてをゆだねることだ。文字通り、すべてだ。

 Necoにこちらの情報と相手の情報をすべて提示して、善悪や処罰や待遇を決めてもらう……とっても、スリリングな賭けなんだ」」







「……Necoに……?」

「そう」



 シュンは、まったく穏やかな顔で笑っていた。――もはや。





「全責任を、――つまり社会に生きる人間、そして成人申請が通っているのであれば成人としての責任を、すべて放棄する。

 そして、自分のいままでのインフォメーションを、すべてさらけ出すんだ。それこそ――クローズドネットまでね」

「……えっ、だって、クローズドネットなんて、オープンネットと違うじゃない、そんなの、とても個人的で――」



 プライバシーとか、そうよ、……ひとにはぜったい見せたくない引き出しだって、いまはじっさいのテーブルの下についているんじゃなくって、そこの、クローズドネットに――あるのに!


 それに、……それにシュンの場合は、そうよ、……なおさらよ、




「……そうだね。僕の場合は、あの……すさまじいいじめの情報までもが、オープンになってしまうことになる。責任を、ぜんぶ明け渡すわけだから……僕のいじめの動画とか、たとえNecoによってオープンネットにばらまかれたりとかしても、文句は言えない。全責任クローズドネット開示要求っていうのは――そういうことだから」

「……そういうこと、って……?」

「僕のクローズドネットは、丸裸にされる。なにも抵抗できなくなる」

「……まな板の上の鯉みたいに……?」

「それ、おもしろいたとえだね、そういうことだね南美川さん」

「むかしの、ことわざなの……」

「でも、まな板の上に乗るのは僕だけじゃないよ」



 シュンは、とても優しい目をした。



「そのぶん、相手のクローズドネットも開示させることができるんだ。この場合は、ごめん、……南美川さんのお家のすべてのひとが対象になると思う。全責任クローズドネット開示要求は、周囲のひとをも巻き込んでいく……」

「そんな、なにそれ、……むちゃくちゃよ……」



 むちゃくちゃな制度。クローズドネットっていうのは、プライバシーがしっかり守られて安全だって、わたしは人間のころそう教わっていたのに――。




「……うん。気持ちはわかるよ、南美川さん」




 シュンは、優しい顔のまま。

 それでも、わたしの気持ちを読み取っているかのようだった。




「でもね、猫っていうのは、とても慎重深くて、臆病なひとでもあった」

「……だから、なんだっていうの……?」

「……猫はたぶん世間が思っているような整然とした理論派じゃ、ないんだよ」





 シュンは、そこでふっと空を見上げた――ああ、ああ、新月、――このひとはまるで新月になんて気づいてさえいないようすで、逃げて、走って、語ってきたのに。

 目を、細めて。――ああきれいだねって、言うみたいに。





「……Necoには、たくさんの高柱猫の想いが隠されている。そっとね。……僕はプログラミングのことを多少わかってきてから、やっとそのことに気がついてきた。そっと……彼は、財宝を埋めるように彼のプログラミング体系、Necoに、いろんなものを遺しておいた」





 それはたくさんよっぽどNecoにふれていないとわからなくって、とシュンはひと息で言った、

 そして、――ふいに立ち止まり、ああ、ああ、――なんだか満足そうな、いっそしあわせそうな顔で、月を、見上げて、自然とどうしようもないみたいに笑って、笑って、






「Necoをプログラミングすることで、僕にはわかったんだ。……猫さんは、ほんとうは弱いひとを、……僕みたいなひとを救いたかっただけなんだって。でも、不器用だったから……だから……」





 ああ。シュン。

 どこを、見ているの。



「――誤解された。猫は……強いひとの味方みたいに、なっちゃったけど。

 でも、僕にはね、わかるんだよ南美川さん。


 強者と弱者が真正面からぶつかったとき、とりあえず両者のことを丸裸にして情報をそれこそまな板の上に乗せる、そしてそこで猫さんが魚を調理するんだ、それはとっても、――とっても平等なことで、それが、つまりね、……全責任クローズドネット開示要求っていう、Necoプログラムのなかでも、かなり知られていないニッチな、でも存在する、制度だったり……するんだよ……」




 あなたはね、そんなことを言いながら。わたしの知らない、そして世間もほとんどが知らないであろう、――そうオープンな世界ではほとんどのひとが知らないだろうことを、ぺらぺらと、まるで軽快な雑談みたいにしゃべって、

 そして、そして、そんなに愛おしそうに月を見上げて、あなたはどこを見ているの――?

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