灰皿代わりの
シュンはわたしを抱いたままかるがると玄関に向かった。靴を探しているのだろう、視線を落としてなんどか動かす。けれどもシュンのぶんの靴はなかった。スーツといっしょに履いてきたあの革靴は、処分されたかしまわれているかしてしまったのだろう。
「……スーツも返してもらってないんだけどな、仕方ないよな、こればっかりは」
シュンはちょっと悪態をつくみたいにそうつぶやいた。
どうやらわたしとまったくおなじことを考えていたみたいだ、そうよ、いま着ているのはそもそも狩理くんのものだったはずの、でもおなじ高校なんだからデザインはまったくいっしょの、グレーを基調としたブレザーの制服。
やっぱり、シュンが着るとだぼだぼだ。裾が余っている。狩理くんだって太っているわけではない。シュンが――細いんだろう。
「もうここまでくれば、どこまで汚れたっておなじだろっ――」
シュンは靴を履くのを諦めたみたいで、素足で扉の前へ、
ああ、ああ、ひらく、ひらくの?
わたしがぜったい開けられないもの。
外の世界へ、――帰るところへ続くもの!
シュンは上のアナログキーは捻って、下のデジタルキーにはもういちどプリーズネコってつぶやいて、
そうやってどちらともいともたやすく開けると――出た、出た、――家の外に出たのよ!
そこはすでに陽の沈み切って、でも街灯のあたたかい光がいい感じについて、よりいっそう閑静な住宅街。
森林公園も近いから、鳥の鳴き声さえも聞こえてくるのよ。
なんだろう。ホウホウ、って。うるさくもなく。心地よい響きで。
ここに立派な住人のひとりとして暮らしていたころにはぜんぜん気がつかなかったけど、自然だなんて、うそ、……ううん嘘じゃないんだろうけど、自然というものさえもつくっている、つくられている、……人間にとって心地いい自然ってものがきっと構築されてるの、
……わたしがたらい回しにされた施設。おもなものは、みっつだったけど。そのうちのふたつめ、超調教施設が、……自然のなかにあった、こんなふうに人間のための切り取られた不自然な自然じゃなくて、ほんとうに、ただそこにあるだけの自然、
人間未満には――自然を快適に調節する権利さえ、ない。そのことを、わたし、そんなことさえ……学んだんだから、学びたくもなかったことを、よ……?
シュンは空を見上げた。月が出てる。ああ。新月。――見上げたのかな?
「……よし……」
「あっ、――待ってシュン!」
わたしはびっくりして叫んだ。
家の前、表札のかかった小さな塀の、表側ではなく、裏側に、
シュンもあっと小さく驚きの声を漏らした、
「……あんだよ」
――狩理くんが、いたから。
塀の裏側と駐車された自動車のまんなか、れんが作りのステキと言われ続けた塀にだらしなくもたれかかって座って。
ついでに言えば――煙草と、ワンカップのお酒を飲んでる。その隣にも、ガサガサしそうなビニール袋が、置いてあって。
ワンカップのお酒はもう二つ、開けられてしまっていた。そこに狩理くんはいまも、煙草の灰を押しつけた。どうやら灰皿代わりにしているらしい。
狩理くんがよく缶や瓶を灰皿代わりにすることは、狩理くんが喫煙免許をぶじに取り終えて煙草を吸うようになってから、知っていた。でも、――パパとママからはやんわりと、けれどもたしかに咎められたことがあるのだ、
そんな吸いかたはまるで犯罪者の仲間みたいだから、やめなさいと。
狩理くんはそのときにもむしろいっそ照れたような笑みを浮かべたことを、わたし、よく覚えている、ああそうですよねすんません、これからはきちんと灰皿準備して吸いますわあって――そんな狩理くんを見て、わたしは馬鹿よね、素朴に狩理くんは反省したんだなって思っちゃった。
でも、狩理くんがそのあと変えたことは、灰皿を使うようにしたのではなく南美川家ではいっさい煙草を吸わなくなったということ。相変わらず大学では吸ってたし、自宅のあの小さなアパートでも吸ってるって言ってた。わたしは狩理くんのアパートには行く習慣がなかったからそっちでのことは知らないけれど、すくなくとも大学での飲み会では狩理くんはいつもドリンクのグラスや水のコップや、そして缶や瓶に押しつけてやっぱり灰皿代わりにしてた、
わたしはいっかい言ったのだ。言ってしまったのだ。
『狩理くん、なんでそういうところで火を消しちゃうの? パパやママもそういうのよくないよって言ってたじゃない……』
たしか、大学での飲み会のときだったと思う。優秀者ばかりの飲み会だったけど、ううんむしろだからこそ、羽目の外し具合がひどかった。飲み屋を国立学府の名義で貸し切って、飲むわ食べるわ笑うわの大騒ぎ。一般的に言えば飲食の店員さんよりも自分たちのほうが社会ポイントがすでにデカいことを知っているから、――ときには店員さんを借り出してのお遊びになる、ううん、あれは遊びでは、ない、……いじめだ、いったいわたしたちは、あえて自分で言うけど優秀者のわたしたちは、ただ飲み会をするっていうだけでどれだけ自分たちより劣等のひとびとを、つらい目に遭わせたのだろうか、
よくニュースにもなってたじゃない、とくに接客業における優秀者のハラスメント、……自死だって出ている、けれどもニュースを書くのだって報じるのだって法で裁くのだってきっとほとんどが優秀者――自死するだけの意思決定能力があるぶん、ま、逆説的に人間的理性、すなわちある種の優秀性を認められるのではないでしょうかね、なんて言ってた、わたしはあのとき聞き流していたけど、ああ、なんて、なんて、……馬鹿なことを。真顔で。みんな。そうよ――。
優秀者はすんなりと基本成人既定の最年少である十八歳で成人申請が通るひとが大半だし、喫煙免許も飲酒免許も、程度をハズさなければ薬物免許までもが取り放題。
おまけに、ある程度の行為は
つまり、劣等者が優秀者をかりに殺したとしたら優秀者の稼ぐはずだった見込みの社会評価ポイントを弁済しなければならない、だから刑罰はズンと重たくなるし、
そして、そして要は、優秀者が劣等者を殺してしまったところで――はい、ごめんなさい、でも自分はそのぶんの社会評価ポイントを稼いでますよ、あるいは国立学府とかどっかのえらいところに行ってるから充分見込めますよ、という書類を出せば、もうその時点で、刑罰には問われない。ただその年はちょっとだけがんばって、……より社会さまのお役に立てばそれで、おしまいだ。おかたづけに、なってしまうのだ、……キレイにとかいう表現使うみたいだけど。
なんて、なんて、馬鹿らしい。
そして、いったいどれだけのひとが、……優秀者の陰で理不尽に苦しみ、ただ静かに壊れていったのか。
いまなら、そう思う。当たり前のように、素直にそう思える。
けれども、そのときはなんにもわかっていなかったから。
……狩理くんがどれだけの社会的負債を抱えているのかも、もちろん知らなかったし、
劣等者がほんとうはぜんぜんちゃんと人間なんだってこと、知らなかったから。
狩理くんは、すこしのあいだ沈黙をして。
そして、言うのだ――。
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