人生の課題は

 シュンはわたしを抱えたまま部屋を出て、左右をきょろきょろして。わたしが、右よっ、と言う前にシュンもそっちに階段があるとわかったみたいで、猪突猛進と言えるほどまっすぐに直進した。

 階段を、いちだん、にだん、さんだん。やがては二段飛ばしになった。



「そのあとはねっ、そのあとは、左に曲がればすぐに玄関だから!」

「わかった。ありがとう、南美川さん」


 トンッ、とシュンが一階の廊下に着地した。滑りかけた足元を壁に手を突いて阻止する、抱っこされてるだけのわたしはなにもできないけど、せめてシュンがちょっとでもこの家から脱出することだけに専念できるようにと、ぎゅっと肉球の爪を汚れた制服の胸元に引っかけた。



 でも、そのときバアンと勢いよくモノクロの扉が開いた。もちろん、言わずもがな、リビングに続くモノ、

 真がいた――髪の毛を振り乱して、ぎらぎらした目をして、こっちを、こっちをきっと、――殺したいってほどに憎んでいる。もともと憎んでいたんだろうけど、いまだったら真はほんとうに――わたしもシュンも、殺せてしまいそう。




「……ただの劣等者のくせして……!」




 真は歯を剥き出しにして、吠えた。その叫びはわたしに向けてなのか、シュンに向けてなのか、おそらくは、――両方なのだろう。

 そしてつかつかと歩み寄ってくる。シュンはなんでかこんなときに、――動きを止めてそこに立ち尽くした。




「シュン、逃げて……!」




 けど、シュンは、動かない。




「なんなのよっ! 劣等者の分際でっ、だれに許可取って生きてると思ってんのよっ、あたしら優秀者のみなさまがたに対してでしょうがああ――!」


 真はガッとシュンの制服のネクタイを握って、握りこぶしとともにシュンの顎に殴りあげた。

 女の子とはいえすごい力、ガンッとかいって音したし、まったく痛くないなんてわけ、ないはず、

 なのに、シュンは――痛そうなようすを見せない。



 むしろ、こんなときなのに冷静に静かに言う。

 抱かれているわたしからしたって真の目線はすこうし下にある、

 だから、シュンからしてみればずっと下の位置にいる――わたしの妹を、躊躇なく見下ろして。



「……南美川さんの妹さんだなって。ほんとに、思いますけど。それ、よく、わかりましたけど」

「はあ!? なに言ってんのよ劣等者っ――」

「似てるけど、似てないところもあるんだなって。ね? ……南美川さん」

「え? う、うん……?」



 ああ、だからこのひとはどうしてどうしてこんな状況で、楽しめるのよ、ここにいるどんな相対的優秀者よりもずっとずっと、あなたは、あなたは、どうしてこんなときでもこんなふうにいられることができるのかしら――!




「いまの状況だったら。南美川さんだったら、股間を蹴り上げて倒れさせてその勢いで顔まで蹴るくらい、やってると思う。ね?」

「え、……えっ、そ、そうだったけど……! だ、だからそれはごめんってなんども言ってるのにっ――」

「あはは、べつに謝ってほしいわけじゃないから。……ただ、だからですね妹さん。僕は、とっくのむかしにあなたのお姉さんに劣等者としていじめられてるんです。なんにも自慢にならないけど」

「そうね……なんにも自慢にならないわよね……」




 ほんとうよ。

 わたしが強烈ないじめっ子だったことなんて、なんの自慢もならないじゃない。

 ましてや、……いじめられっ子当人に言われたって、ほんとうになんにもならない、どうしようもない、おもしろくもない――。




 ……頭ではそうやってまともなことを思う自分がいても、

 でも、でも、――おもしろいんだ、ふしぎよね、




 このひとといると、なんでかいろんなことが奇妙におもしろくなってくるの。





 真はなかば呆然としてシュンを見上げていた。

 でも、すぐにシュンのネクタイをねじり上げる。

 噛みつくみたいに、睨みあげる。



「……あんたら、ほんと、気持ち悪いよっ……!」

「うん。でも、それは、……こっちからしてもそうかもしれない」




 シュンはそっと真の腕に、その大きな手のひらをかぶせるように乗せた。

 愛しいひとにそうするように。恋人とか、教え子とか、――妹とかにそうするみたいに。




 そして、諭すように言うのだ。




「……僕の手、汚れていて、ごめんね。でも。……あなたたちがそうしたから。気持ち悪いだろうけど、あとでお風呂に入ってください。

 僕にもね、これでもね、……妹がいてね。真ちゃんよりも、ふたつかな、年上なんだけど」




 わたしは耳を疑った。

 いま、いま、このひと――真のこと、真ちゃんって呼んだ?




 どうして? なんで? こんな状況で――。




「海っていう名前で、末っ子っていうのもあるんだろうけど、まあわがままでどうしようもない子なんだけどね。家族もほとほと手を焼いてて。

 ……でも、海はこのあいだ大学を卒業してね。僕は二年遅れてるから、ほぼ同時に、だったんだけど。それだけでも僕はもう海には、……追いつかれて追い越されてるのかな、って感じるけど……。

 海はね。彼女なりに、将来のこととか、自分のこと、できないことやできること、価値も意味も、……見つめなおしたみたいなんだ。ほんとうに、もともとはひどいわがままっ子だったはずなんだけどね。

 でも、僕がそんなこと言える権利があるかというと微妙で。海にはね、僕は兄として悪影響ばかり与えてしまったんだ。引きこもりとかいういちばんやっちゃいけないことも、やっちゃったしね。……お兄ちゃんのせいで私の人生サイアクだよ、とか言われちゃったこともあるんだよ。……でもね」




 シュンは真の腕をそっと持ち上げた、……まるでかるがると。



「海は、おとなになって。だんだん、自分の人生の課題を僕のせいにするのをやめてくれたみたいだ。すくなくとも、やめようとしてくれてる。

 ……だから僕だって、海みたいな怪獣のようなわがままっ子が妹にいなければ、もうちょっとうまくいったんじゃないかな――なんて不毛な思考を、幸いなことにしないで済んでる」




 真はといえば、ただ、ただもうシュンの顔を見上げている。信じられないという感情そのものを、その顔に張りつけて。





「……真ちゃんも、早いところ自立したほうがいいよ」





 え――?

 いま、このひと、えっ、なんて、




 そんな人生アドバイスみたいなこと――ほんとに、言ったのかしら?




 シュンは、シュンは、……あくまでもいつも通りのまじめさで。




 真が短く息を飲んでひっと引きつった音がした。

 その瞬間、シュンは真の腕をいともかるがる羽毛でも剥がすみたいに、そっ、と外した。





「行こう。南美川さん」

「えっ、でも、でも、あの、シュン、――真ちゃんはっ、」





 もう闘争する意思さえなくしたみたいに呆然として脱力しているだけの妹、

 もう立つ必要はないのかなあとでも言わんとばかりに、ひょろり、とよろめき座り込んだ、真、――わたしの妹、






「……もう、あとは真ちゃんの問題だ。南美川さん。これ以上、僕たちにできることはないよ」





 そう、なんだけど、そうじゃないし、

 そうじゃないけど、……そうなんだし、





 わたしはもうなにも明確な言葉が返せなかった、だからただ、――玄関に向かってふたたびまっすぐな進行をはじめたこのひとに、間違いなくぎゅっとつかまっていることしか、できなかったの。


 なにか、叫び声でも追ってくるかと思った。馬鹿姉とか、劣等者とか。そのほうが、ずっとあの子らしかった。けど、――沈黙していた。

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