流れる宝石

 ビゴン、と鳴ったNecoの起動音は、わたしの知っていた明るい女の子のようなNecoの起動音よりも――ぜんぜん、大きく、重たく、そして低く響くものだった。


 そしてそのNecoは言う、やはり、……とても低い男のひとみたいな声で、



「Ok」

「……よし」


 直後にすぐシュンが小さくつぶやいたのが聞こえた。再会してから、じつはわたしはいつも思っていたんだけど――このひとの自信は、堅実で確実。……わたしとか、わたしの家族だったひとたちみたいに、調子に乗らない。



 いっぽうの化といえば、上半身を起こしたとはいえ寝転んでいる体勢のシュンの前に立っている。

 わたしにとってははるか高みでわからないけれどきっと――仁王立ちになって、……シュンのことさえはるか高みから見下ろして、いるの。




 さっきあんなにずんずんと一直線にまっすぐとズボンもパンツも脱いだままで向かっていっていたのに、

 いまは、静止しているの、なぜか、そのなぜっていうのが怖い、怖い、――わたしの弟のはずだったこのひとはほんとうによくわからないんだから、次なにするかとか、これからなにしようとしてるのかとか、

 いつだって、穏やかに当たり障りもなく見えるのに、わたしだってわたしだって、だって――人犬にされてもふもふとか言ってあちこち触られたり舐められるだなんて、ほんとうに、思ってもみなかったよ、ねえ化ちゃん、――ほんとうにあなたはほんとのところは、なにを考えているのかしら!




 化はぼそっと言った、




「……ぼくはおむこさんのこともかわいいって思いたいんだけどな。すくなくとも、そういう努力をしてるんだけどな」

「……それ、は、よわ、く、するってことでしょうっ、――化!」


 わたしはたぶん叫んでそう述べるよりも先に全身で駆けはじめていた。シュン、シュン、――もういちど出会えたあなたのところに向けて!




 なんとなく、なんとなくほんのちょこっとだけどわかってきたのよわたしは、やっと、――人犬だなんてこんなにこんなに低くて弱い立場になってやっと、わかった、


 かわいいという言葉、一見ただただほのぼのといい意味のようだけどじつは、とてつもない真実も含まれている、


 かわいいっていうのは、漢字で書くと可愛いって書く――わたしはこれでも民間伝承的な本を読むのもむかし人間のころには好きだったし、だからわたしもみんなもお気軽に言うようなカワイーカワイーっていうことの語源が、じつは、

 愛することが可能だっていう、――そういう意味ももつんだってこと、知っている。



 ……人犬も含めて、犬はかわいい。

 それは、……わたしが思っただけのことなんだけど、やっぱり、かわいいかわいいって愛することができるからで。



 でも、その愛を可能にしているのは、あくまでも――圧倒的な弱さ、なのだ。



 ……きっとかつての家族にとってわたしはかわいくはなかった。

 かわいいところもあったのだろうけど、完璧に、愛しきることはできなかったのだと、いまなら素直にそう思っている。



 人犬になったらかわいくなったね。

 それは、きっとそういうこと。




 中途半端に優秀なわたしが、そうだ、――圧倒的優秀者の家族と婚約者には、たぶん我慢ならなかった……。




 でも。

 ……でもね。




 そうよ、……いまシュンが言った通りなの。




『あなたたちはあまりにも弱者を知らない』




 ……屁理屈言うようなんだけどね、

 強いひとは、そうよ、たしかに、……弱さがいまいちわからない、ピンとこない、


 それは、劣っていることを理由にシュンを勝手に人間未満として扱ってよいと素で思ってた、そしてそれ以前にそう感じてしまっていてそのことを疑いもしなかった、あのときの、わたしだって、――そう。




 わたしが知ってて、シュンが知らないこと。

 それは、たぶんたくさんあった。高校のときからずっとだ。たとえばそれは学校の勉強、教科書に書いてあること。


 けど、わたしはその逆の可能性に、まったく思い至らなかった、わけで、


 ……知識も、だけど、




 このひとが、いかにまったき人間で、……ひとというのにふさわしいか、

 そのことを――知らなかったんだ。かつての……わたしはね。




「シュン!」




 わたしはシュンの胸もとに駆け込んだ。ふつうに、あくまでもいつもの日常みたいにふつうに呼びたかったのに、声は湿るのを通り越してやっぱり濡れてしまっていて、でも歓喜の響きも自分でもおかしいほどに強くて、ああ、だから、――待ち望んだ再会のときに上げる声そのものになって、しまった、――もちろんその通りのことがいま起きているのだけどね!


 シュンは、ゆっくりと、けれども確実にわたしを抱き止めてくれた。

 そっ、と腕がわたしの背中に回って、きゅっ、とその腕はわたしをほとんどまるごと包み込んでくれた、――ほんとうにわたしは小さな体なのだ。こういうときに、あらためて実感せざるをえないのだけど……。



「シュン……おかえり……」

「……ほら、南美川さん。そんなに泣かないで。……まだここでのことは、終わってないんだよ。……たくさんすることがあるよな……」



 シュンにそう言われてわたしはやっと自分が泣いていることに気がついた。

 ぼろぼろ、ぼろぼろ、気づけばわたしは泣いていた。


 自分では涙を拭うことさえできないわたしの顔にシュンはそっと指の腹でふれて、わたしの汚いはずの顔面の液体が、いかにもいとおしくうつくしい、みたいに、すくってくれた、指もぴとっとわたしのほっぺたに置いてくれた、……だからわたしはくすぐったい気持ちの笑みを浮かべることができてしまうの。こんなときにも、あまりにも、ごく、自然に。


 このひとの前で泣くときには、いつも、いつもだ。

 それはこのひとの前にいるかぎり、あるかぎり、

 ほんらいどうしようもなくて行き場もないただの一匹の人犬の目からあふれ出る絶望のあかしではない、それが、宝石になる、――流れる宝石になってくれるの。




 うしろから、声がする、のっそりと、じっとりと、べっとりと、



「……そっか……姉さんは……やっぱり……その子が――好きなんだ」



 ほとんど、反射だったのだと思う。

 わたしは、飛び出た。


「シュン! だめ!」



 化がこれからいけない動きをするということが、なぜだかわかったんだと思う。

 反射というか、……経験なのかな。気配が、わかって……。


 いちおう、彼の姉を曲がりなりにも十何年かはやったんだっていう、そういう慣れによる、……反射、だから経験ともいえるのかな……。



 わたしはシュンの前でがんばって二本足で立とうとした、立てないけど、立とうとしてもつらくて脚もぷるぷるしちゃって数秒間しかそうしてられないけど、でも、どうにかどうにかその体勢に、なった、



 案の定というか、なんというか、化は、動きを止めた。




 そのはずだ。それを、わたしにしたところで、意味がないよね……わかるよ。

 その注射にたっぷり入った、黄緑色の、その液体。ねえ。ねえ。いったいシュンに――なにをしたのよ?





 そして、これから、ほんとにほんとはほんとの本音は――あなたたち。なにを、したいの? ねえ、ねえ、怖いよ、……ほんとうにさ……。




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