シュンの異変
目の前に、コトン、とエサのお皿が置かれた。
真よりもずっと、淡く優しい置きかた。視線を上げればそこには、化がまるで慈愛そのものみたいな穏やかな顔をしてしゃがみ込み、頬杖をついてわたしを見下ろしていた。……そういえば、頬杖をつくのは真も化も、だ……。
「ねーえさん。犬の姉さん。まーてっ」
わたしはまたも尻尾を二、三回振ってみせる。
「ふふ。いいこの、姉さん」
きゃう、と小さく鳴くところまで弟にサービスしてやった。
「えへへ。いいこ、いいこの、いいこの姉さん……」
……そんなに繰り返さなくってもいいのに。そう思うわたしの頭を、耳といっしょくたに化が撫でた。……耳の裏、ちょっと強くひっかくかのように撫でるようになったの、いけない、そこ、……きもちいいから、さわってほしくない、化、……いったいそういうのどこで覚えてくるのよ。
「うん。……よし! いいよ」
ここぞとばかりにわたしは施設での調教を思い出し、なるべくつぶらな瞳になるように意識しながら化を見上げて、犬っぽくちょっとだけ笑ってみせた。
化はますます満足そうな顔をする。だから、――わたしはエサにかぶりついた。もちろんけさも、人犬用のマッズいペットフード。
「……おいしい?」
わたしはエサを口に含んだまま、わう、と鳴いてみせた。肯定のしるしだ。もちろん、ほんとはおいしいわけない、いまにも吐き出してしまいそうなほどサイアクな味、でも、でも、犬に――否定の権利は、ない。
「ちょとおお、化ええ。そんなんぜったいマズいんだからさああ。あんまカワイソーなこと訊いてやんなって、ことだよー」
真がはるか上、ダイニングテーブルのダイニングチェアから言ってきた。脚を、ぷらぷら遊ばせている。表情は見えない。人間は知らないだろうけど、デフォルトの姿勢が四つ足の犬の視線の高さからすると、見上げて人間の表情まで見えるのはせいぜいが床に置かれたローテーブルまで、ダイニングテーブルまでの高さになってしまうと、もう、脚やせいぜいが腰のあたりまでしか、犬には見えないのだ――。
「……ん。でも、真ちゃん。姉さんは、おいしいって、ゆってる」
「本気で言ってるわけないでしょおお? そんなのおいしかったらそりゃただの犬でしょ、犬」
「……姉さん、は、犬だよ?」
「あー。そうだけどお。そうじゃなくってえ……」
真はもどかしそうにそのすらりとした脚をばたばた、させた。
「……もういいじゃんソレ。ねっ、こっちきてフルーツ食べようよおお、フルーツ。おいしいーのが、いっぱいあるんだ。みずみずしいんだ。イチゴもさあ、天然モノいーっぱいあるでしょおお? えへへえ、狩理くんがねえ、たーくっさんお買いものしてくれるからねっ。わたしと、わたしたちふたりきりのきょうだいのために、ねっ」
……あきらかに、あてつけている、真。
……わたしの言えたことじゃないけど、まったくわたしは言える権利ないかもなんだけど――わかりやすい……。
「……ん。じゃ、ぼくも食べる」
化は立ち上がったけど、ふっとこちらを振り向いてきた。
「姉さん、なんか、くだもの、いる? 食べさせて、あげるよ……」
「ちょっとだからなに言ってんのよお化! ソイツにあげるわけないでしょっ!」
「でも、カケラだけなら……きっとぼくの手から、おいしそうにはみはみしてくれる、のに……」
「ああああん、もおおお! そんなこと言うんじゃ化にもくだものあげないからっ」
「……え。なんで?」
「自分の胸に聞いてよねっ!」
……気がつけばふたごの妹と弟は、わたしそっちのけでなにやら言い争いをはじめてしまった。
ちょうどいい、都合がいい、……このマズいエサをどうせ食べなきゃいけない、栄養のためというのもあるけれど、……わたしが早く食べ終わらないといつまで経ってもうえのお部屋にエサをまき散らして、もらえない、
シュンのいる、お部屋に――。
……わたしはパサパサで臭いそのエサをひたすらにはぐはぐはぐとして口と喉に詰め込んでいく、
ふたりの言い争いのようすを聞くともなしに聞いていた、どうやらわたしの妹と弟は、……小さなころからじつはあんまり進歩はしていなかったらしい。
わたしの前では、ふたりともおすましさんだったから、このふたりがじつはずっとこうだったなんてわたしは、ずっと、知らなかったんだけれどもね――。
★
けさもぶじ、エサをおなかに詰め込み終えて、
……真と化も国立学府の大学に行かなきゃいけない時間だからってやっと言い争いを終えて、それぞれ、身支度をはじめて、
わたしは――シュンのいるお部屋に、戻された。
真はなにも言わずに、……バタン、とドアを大きな音で閉めて、そのまま去っていった。
シュンはまるくなって寝ているようだ。
日に日に、熱は下がってきている……けど、それは最初のすさまじい高熱に比べたら、ということだ。最初なんて、わたしのもこもこの毛皮のところからでもわかってしまうくらい、熱かったのだから……。
けれどそれでもまだ、……お熱といえばお熱なの。
微熱くらいだろうけど、……油断ならない、
なにせ、いちおう最低限の栄養があるとはいえ人犬用のそっけなくとても味のマズいペットフードと、排泄を繰り返されても着替えも手入れもしてもらえない高校時代のだぼだぼの制服、震えるほどではないとはいえ肌寒い室内、ふとんなんてもちろんない、カーペットのうえで身を寄せ合うしか、ない、……そんなカーペットだってわたしたちの排泄物ですごく汚れてきている、
そんな劣悪すぎる状況で――病気なんて、コロッと悪化してしまったり、するのだろう。
だから、だから、元気になってね、シュン――けさもそんな祈りとともに、わたしはシュンのおくちにエサを運ぼうと思っていた、ひな鳥にエサをやる親鳥みたいね、じっさいにはわたしは、……犬なんだけど。
……シュンのベルトの拘束は、けっこう、かなり、行動範囲を狭くしている。
散らばったエサを取りに行くことさえもできないほどには、ね――。
「……シュン。ただいま……えへ……わたし、いいこで、エサ食べてきた、からね……」
……わたし、けさも、お散歩もエサの時間もいいこにした、から。
もうすぐ、シュンのぶんのエサも、……ここにぶちまけてもらえるはずなの。
そうしたら、おくちで運んで……運んで……。
わたしはとてとてとシュンに歩み寄る。
「だからね、シュン、もうすぐ、ごはんだからね……シュン?」
返事が、ない。
「……シュン?」
いつもなら、
「……え、……シュン、」
……いつもって言ってもここに来てからのことだけど、でも、でも、でも、
「シュン?」
おかえりなさい南美川さん――って、とてもしんどそうに、でも、顔上げて、わたしのこと迎えてくれるのに、
「――シュン!?」
返事が、ない、――微動だにしない!
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