せめて、いまだけは



 化が、去って。

 ……静かに、なった。

 かつてはわたしの部屋だったこの部屋は、日当たりがいい。自然公園がそばにあるから、チュンチュン、すずめの鳴き声もすこしだけれど聞こえてくるの。わたしもこの家でずうっと感じていたこの爽やかな朝の、空気、天気もいいみたいだし弟の言った通りにきれいな朝なのかもしれない、――わたしたちの感情や排泄物で汚れさえしていないならば。


 ……いつまでも、化が去っていった柵とそれ越しの扉を見ていたって、しょうがない。わかってるけどわたしはやっぱり呆然としてたから、振り向くまでに、すこし時間がかかったのもしれない。

 シュンは、化に放り投げられたときのまま、ブレザーの背中をこちらに向けてただじっと動かないの……ううん、よく見ればわずかにその背中が動いてる、よかった、生きてるのねって思って、でも――こんな状況、いのちだけあったって、シュンは、……シュンまで、……わたしみたいに……



 ……犬に、なっちゃうの?

 わたしの、せいで?



「シュン……」

 口から出てみれば、自分でも笑っちゃいそうになるくらい弱々しい声だった。わたしはシュンのもとに犬の四つ足ですり寄っていって、……いつもみたいに、その肩のあたりに胸を乗せた。乗っかるみたいに。

 シュンは横になっている。だらんと垂れている頭。顔は、男のひとにしては長いその髪の毛のせいで隠れてしまっている。表情が、見えない。

「ごめん、ごめんね……ごめんね……」

 わたしはカリカリとシュンの肩や剥き出しの首すじを、ひっかき続ける。シュンは小さくうめき声を上げる、……返事は、ないけど。

 ……わたしはひっかくのをやめて全身の力を抜いた、このひとの首まわりをすべて覆い隠すみたいに全身の体重を、預けた、


「……怒ってるよね、わたしのせいだよね、ごめんね、ごめんね、でも、でもね、わたしはあなたがほんとに犬になっちゃっても――」



「……なんなんだよ、もう」



 わたしはびくっとした――でもその言葉の響きはけっして不機嫌そうではなく、拗ねているのになぜかどこか、変な話よね、……楽しんでいるふうでさえも、あって。



「なんなんだよ」



 繰り返したその言葉は、……うわごとのようで。



「僕は、最低だ」

「……あなたがじゃないわ。わたしよ……」

「夢とはいえ。こんなことまで、南美川さんに言わせるんだ。……いくらなんでも、そこまで狂ってる気はなかったんだけど」

「夢じゃないもの、ねえシュン、ほんとよ……」


 わたしは、カリ、ともういちどその首筋を前足でひっかいた。

 シュンの言葉は、止まった。……身体が密着してて、すぐそこだから大きい呼吸を繰り返していることだけは、わかるの。



「……じゃあ、でもさ」



 シュンはそう言いながら、わずかに上半身の角度を傾けると、髪の毛のあいまからしっかり目線を向けて、わたしの顔を見上げた――その目があんまりにもとろけていて幼い男の子のようだから、わたしのこころはびくんと跳ね上がる。

 まるで小さな男の子が大病をしてベッドに寝ころんでいるときみたいに、

 熱い息をなんども吐いて、顔を赤くして、とても怠そうに、それでいて一生懸命とにかくなにかを訴えたくて、そして、そして――


 なんで自分がこんな目に遭うのっていう理不尽と、……そしてそれを気丈にも呑み込もうとしているみたいなこの、顔、ああシュンあなたはほんとうに――ほんとうに、……わたしの気持ちをここまでかき乱すの。

 だって、十七歳のこころのあなたがそんな顔するの、わたし……せつなくって、せつなくってさ……。



「……家族の、ことは、ほんとなの? 夢だけじゃなく……そういう、ことなのかな? ……なんて、ほんとは、夢に訊いても……しょうがないんだけど……。

 ……うん。でも。僕はあなたは順風満帆な家族に囲まれてるって、ずっと、思ってた、疑いを挟む余地も、ないくらいに、――学校で話す話からしても、……とても、立派な、家族だって感じだったから……」

「……立派では、あるわよ。立派すぎて、長女を人犬にしちゃうくらい立派だわ……」

「……いじめられて、る?」

「それより、ひどいわ。……こんな身体にして、人権も奪って、飼うのよ、飼うの、……人間だってことさえ認めない、わたしを玩具にして、ずっと楽しむつもりなの、もてあそんでさ、ひどい、……ひどいよねえ、は、あは、……あははは……」


 そう、そうよ、――あなたにもおなじことをしようとしてるの、わたしの家族は。

 どうすれば……どうすれば、いいのかしら……そう思っているせいか、なんなのか、乾ききった笑いといまさらの涙が、――とまらない。



 シュンはそんなわたしをじっと見つめてた。

 わたしの、……発作みたいな笑いと涙がすこしだけ落ち着いて、すこし、途切れたとき、大きく息を吸ってわたしに、言うのだ、



「……だったら、やっぱり、いま、つらい、のは……南美川さんの、ほうですね」



 強烈な既視感、――そっかまだわたしたちが捕まる前に、リビングで、狩理くんと真と化もいるところでシュンは言ってた、



『喉元過ぎれば熱さを忘れる――でしたっけ、僕はそういうむかしのことわざ的なのってぜんぜん、知らなくて、南美川さんに……南美川、幸奈さんに教わってるんですけど。

 ……いま、熱いのは、幸奈さんですよ。

 僕も燃やされたからとても熱かったし、火傷の跡が消えるなんてことは、ないです、……でも』



 シュンはそこでちらりとわたしを見下ろして、困ったようででも優しい、そのささやかな笑いかた、一瞬だけ、して、わたしだけに、見せてくれて、



『……このひとは、僕が熱かったんだってことに、気がついてくれた、……ので。

 それに――いま熱いのは、たぶん、……南美川さんのほう、だから』




「……僕も、つらい。けど。……南美川さんは、ほんとは、そっか、……つらいひとだったのかなあ……僕の……妄想で、なければ、いや、どうせすべては――夢なんだ、けど」


 いまのシュンはね、

 十七歳のはずだし、たしかにそうなの、十七歳のときみたいな挙動不審さはぜんぜんあるの、弱さもあって、おとなのシュンほど表情がはっきりしてない、

 それなのにやっぱりシュンなの、だってわずかだけれど声色と口もとにあの優しさが滲む、



「……夢のなかだけですけど、僕で、よければ、……よくないでしょうけど、……でも、ここにいますから、そもそも、縛られてて、出れない、……動けない、自由もない、ひどい状況で、……どうしようもない、けど、

 慣れっこです、……いつもいじめられてるし僕、

 だから、僕……せめてこの夢のなかでだけは、あなたといっしょに、いますから……いさせてください。あなたと。こんな気持ち悪い、僕と……」


 

 ――ああ。シュン。

 あなたは、ずっとシュンだったのね。


 いつから、どうやって、そうなったの?

 わたしが人犬の立場に墜ちるまで認識さえできていなかった人間らしさを、

 あなたは――どうして、もっているの?




 シュン。あなたは、いじめられていたのに。ううん。いまのあなたにとっては、それは現在の現実なのに。

 いじめた張本人を前にして。

 どうして、――ただつらいだけだって理由で、そんな相手に、そんな、そんな表情を――向けること、が、できるの?





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