におい



 ……シュンと、ずっと、うとうとしていたかった。

 おなかは、すいたし……のどは、かわいて……やっぱりちょっと、寒くもあるんだけど。

 そして、それはシュンもきっと、そうで……。


 けど、シュンはなにも言わなかった。

 おなかすいたとか、のどかわいたとか、寒いとか、なにも。

 わたしがぽつりぽつりと尋ねてみても、それよりももっとぽつぽつ洞窟かどこかの水滴みたいに、ぽた、ぽた、……そうでもないからだいじょうぶ、と言うだけだった。そんなことない、そんなはずないよ、とらえられてからおなじ時間を過ごしているんだ、……わたしはこんなにも、こんな本能的な欠乏で泣いてしまいそうなのに……。



 ごはん、ほしいよ。おみず、のみたいよ。……あったかくしてほしいの。でも。でも……それは、シュンもおなじはずなの……。

 ううん。どころか、シュンはいまお熱で、体調がとても悪いんだから――なおさらの、はずなの。

 ……はずなのに。



 だから……わたしも喚いたりするのはやめた。

 わかってる、じっさいわかってる、……食事も水分も―部屋の環境だってすべてはわたしの家族、……あるいは家族だったひとたちにいますべてがゆだねられているってこと、ほんとは、わかってる、



 ……そんな残酷すぎる事実、直視どころか見たくもなくて、

 ずっと……こうやって、シュンのおとなりで寄り添っていられたらなあって、思った、かりにね、いまからね、――このままあたたかいまま死ねるならそっちのほうがよかったなあなんてぼんやり、思いながら。

 でも、それはお遊び程度の仮定でしかないし――死にたいって気持ちとほんとうに死ぬことのあいだには、じつはとってもとっても大きな隔たりがあるんだって、わたし、……調教施設で知ったから。



 だから、ほんとうは、本気でこのまま死にたい――とかでは、なくて。

 シュンと、とろとろのまま、ずっとまどろんでいたい、って――ただ、それだけのことだったんだと、思う。

 つらい時間が、はじまるくらいなら。

 ……せめてこれからまた家族の気まぐれで、つらい時間がはじまるまでは、それまでは、……せめて。



 とろとろ……とろとろ、って……。

 シュンのそばにいたまま、とにかく溶けたかった。



 ほんとはね、シュンのおうちに迎え入れてもらってからずっと思ってたの、シュンはね、いいにおいするの、なんだろうねこれ、優しい……においが、する。

 なんだろうか。ちょっと甘くて、けっこうさっぱりしてる。石鹸のにおいなのかな……。


 ……おもらし、しちゃったから。それも、においでわからなくは、ないけど。

 でも……それは、お互いさまで、わたしもなんだし。

 わたしのほうが、ずっとずっと、……犬のにおいがするぶん、いい香りではないはずなのよ……。

 シュンだって、そんなことくらいわかると思う、嗅覚は鋭そうではないけどじつは鈍くもなさそうなひとだったから、それなのに、きっとケモノの臭いがするわたしを、シュンは、……はねのけなかった。



 わたしは、あのころ、……シュンのこと、クサいクサいって、馬鹿にしまくったのにね。

 このひとがいくらお風呂にちゃんと入ったと言って報告のていで懇願してきても――わたしは、ひどいこと、いつも、命令して、……卒業するまでの高校の二年間で、許すことは、なかった……。



「……僕、あの。におわない、ですか」

 そっか、そうよね、シュン、……いまのあなたはあのときの南美川幸奈を日々前にしてる、こころなの。

 だったら、高校生のわたしのせいで、あなたはいろんなことを歪んだかたちで思い込んでて――



 ……だから。わたしはぶんぶんぶんと首を横に振った、金髪も犬の耳も、ぶるぶる震えて――



「……ぜんぜん、そんなことない、ほんとはあなたは、におわないし、いい匂いなの、とても、安心するの、あなたの匂いがいまのわたしは好きなの、ほんとうよ、ほんとうよ……」



 わたしのほうこそなにかにうかされたようにそう言いながら、ひたすら、シュンに、……くっついていた。




 ……けど、ずっとこの状況でいてほしいと思っても、もちろん、そうはいかない。

 その騒がしい気配に右の耳がピクリとしてとろとろの時間はふいに緊張感をもってして凝固した、

 バタン――勢いよく、ドアが開けられた。そして、あらわれたのは、……わたしの妹だったひと。




「はーいはいはあーい。おーはよっ、わんちゃんたちー! ごはんのねっ、……あっ、くくふっ、……エサの時間がやってきまちたよー?」



 言い直さなくたって――いいのに。

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