よかった

「ごめんね、姉さん。だとしたら気づいてなかった、な。

 ……姉さんを犬にしたのはいいことしたってぼく、思ってたよ」



 化ちゃんが本気で言っていることは、……その、眉が、ほんとうにまるで申しわけなさそうに下がっていることで、わかった。やんちゃをしすぎて怒られて、見かけ上は殊勝に反省している小さな男の子のように――。



 わたしの唇はもうわなないてしまっている、



「……そんなわけ、ないでしょ……なに、言ってるの、あなた……。

 わたしを、……いぬに、したのが、――いいことなの? まさか、そんなわけ……ないよね……」



 いいこと、って――なにが?

 思いあたることがあるとしたら、そう、あのとき説明されたそのことくらいよね、……あのとき説明された通り、わたしの人権があなたたちの学費としてキャッシュバックされたこと、が?



 そのせいで、

 わたしが、わたしの、身体が、……人犬に加工、されて、こんな身体ならいっそ全身を体毛で覆ってくれたほうがまだましだったって、自分の身体、顔や、背中や、……胸や下半身のだいじなところだけが人間のままの惨めな、身体に、……されて、

 人権、奪われて、……南美川幸奈っていう人間は書類上はいなくなって、トラックの大きな檻で、ぎゅうぎゅうにヒューマン・アニマルたちを詰め込みながら呼吸も苦しくて、運ばれて、降りろと怒鳴られてもケモノの脚の四足歩行じゃすぐよろめいてしまって、いやよ、いやなのよ、無理よこんなのって泣き叫んでいたら、……ひょいっ、って、男の大きな調教師に、かつがれてしまって、ちっちゃい子みたいに、わたし、――わたしそんなにちっちゃくなっちゃったこと実感して、泣き叫んでたら、

 ……おまえおもしろいなって声帯焼かれなかったの、それにかわいいなって顎を無遠慮に持ち上げられて、舌、出して、ハッハッてしてみろよって、ゆわれて、いやだよ、いやだよって泣いたら、……やらなかったら捨てるぞって、ミンチの、機械、見せられたの、やだ、やだよおって思いながら、でも、でも近所のわんこのこととか、思い出して、……ちゃんとハッハッってしたのよわたしちゃんとやったのえらいでしょう、ねえ、えらいでしょ、

 そうやって……そうやって……愛玩用の雌の人犬たちの調教施設に、送られて……。

 そのときにははてしない無期限のえんえんと続く永遠みたいな時間に思えた、

 ……あとでシュンが教えてくれた……わたしはたぶん、愛玩用のところに一年ちょっと、労働用に切り替えられてから半年近く、そして超調教施設……あの、……ほんとうに、ひどい、ひどすぎる、……思い出しても心が裂けてシュンのお部屋でも、最初はよく、慣れても、……ときどき、ほんもののケモノみたいに泣き叫んでしまったあの、施設、だってあの施設は――ひとだったヒューマン・アニマルを、完全にケモノに堕とすための施設だったの。




 そういう、ことを、……化ちゃんだって、わかってるよね?

 わたしより、そして真ちゃんよりも、優秀なんでしょ、……わかるよね?




「ねえ、化ちゃん、それ、……本気で、言ってないよね……まさか……」

「ほん、き?」

「……わたしは人犬になったのよ。それで……施設に送られたの。ねえ、そのこと、わかる?」

「うん、わかるよ。人犬の、調教用の施設、だよ。ね。……大変な調教。だったんじゃ。ないの?」

「……知ってて……」



 わたしはひさびさに絶望がぶり返してきている思いだ、



「――知っててわたしを犬なんかにしたのにいいことだなんてどういうこと!?」

「……ううん。でもね。姉さん。それ、であっても。よかったよ」




 わたしは耳を疑った。

 よかった――いま、いまほんとうに、――そう言ったの?




 化ちゃんは珍しいほどご機嫌そうににこにこしている、




「姉さんを、犬にして、ほんとに、よかったなあ。……やっぱり真ちゃんは信用できるな。

 だって。姉さん。……うちの家族みんな言ったでしょう? あなたのこと、……えへへ、褒めたの。

 ぼく、はね。ふふ。ちょっと、恥ずかしいな。二十歳にも、なって、シスコンなんて……ぼく、恥ずかしい。でもね。姉さん」




 まるでとってもお姉ちゃんっ子みたいな甘えん坊の弟みたいなこと言って、




 ……化ちゃんは、そっと立ち上がると、キィ、と扉を開けてちゃんとカギ、閉めて、……こっちの世界にやってきた、

 わたしはびくりと身を引く、一歩一歩近づいてくる、なんだかいつのまにか背もとても伸びたような体格も細いながらもがっしりしたような、弟を、その巨大な影がどしんどしんと近づいてくる、


 やめて、やめてよ、――こっちの世界にはシュンがいるの、




「……家族、みんな言ったでしょう。姉さんのこと、――かわいくなったね。って。

 姉さんのこと、みんな一致して、褒めてるの。

 ぼくも、ほんとに、そう思う。姉さん、は、……犬になったほうが、よかったよ」

「……や、やあ、こない、で、来ないでっ、こっち来ないでよっ、や、やあ、やだあ、う、うう、うううう、しゅ、シュン、シュン――助けて!」



 シュンはその声で気づいたのかすぐに目を開けてバッと身体を起こした。

 両手をついてるその隙間に、シェルターに潜り込むみたいにしてすがりつく、あなたは、十七歳、の、シュンだけど、わた、し、ごめん、ごめんね、あなたしか、――あなたしかもう頼れないの、よ、




 いぬだから、

 わたし、あなたの、いぬだから――




「……南美川、さん……? ……あっ、……えっ?」

 シュンは状況がわかってないみたいだけどわたしは前足でひたすらシュンの胸にすがりついてた、




 でも化ちゃんは巨大すぎる怪獣みたいにやってくる、

 はるか高みからわたしを見下ろしてちょっとだけパパみたいな似ているひそやかなニイッとした笑顔でわたしを、見るの、


 そして言うの、




「やっぱりだ。姉さんは、犬になったほうがよかった」

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