第七章(上)わたしのせいで、こんなことになってしまった。高校の同級生のあなたがすこしでもつらくないように、わたしはがんばるの。

十七歳のシュン

 咳き込む音で、わたしは目覚めた。



 目を開けるよりも前に、ぴくん、と頭上の耳が反応する。……この耳は、音にも敏感だ。

 ぱちり、と目を開けてみれば――淡いオレンジ色の光のなか、……横に倒れて身体を折るように曲げて、なんかいもなんかいも咳き込んでいる、わたしがぼんやりと寝起きだったのはほんの一瞬のことだった、すぐに、気づく、思い出す、――現実を、



「シュン!」



 わたしは叫んで転がるように駆けていった、もう、四つん這いで駆けるのも、慣れたよ、ねえ慣れたんだよ、……もちろんそんな慣れわたしはとても嫌だけど、でもいまだけはよかったと思った。


 ……ううん。そんなの、いまだけじゃ、ないね。

 シュンのお部屋。人間のサイズにしてみれば、きっと狭いとも言えてしまうであろうあの、ひとり暮らし用のお部屋。

 そんなお部屋でさえも、人犬のわたしにとっては広く感じる――だからわたしは端から端へ、よく駆けた。

 毎晩、平日、シュンがお仕事から帰ってくるたびわたしは四つ足でドアの前に駆けていった。そして尻尾を振ってシュンを見上げて出迎えたのだ。

 わたしがいい子でお留守番していられるとわかるとシュンは、部屋のドアは閉めたけど、シュンの部屋のなかではわたしを自由にしておいてくれた。どこにも、つながずに。

 わたしはとくに、なにもしなかった。とりわけシュンの困るようなことは、なにもしなかったって、胸を張って言える。

 ただ昼間はほんとうにやることもなかったし、……せめて安心するところでと、シュンのベッドのうえにどうにかよじのぼって、うつらうつらと、カーテンの隙間から注ぎ込む光のなかで、ひなたぼっことお昼寝をしてただけ。どうせ、昼間はやることがないし……シュンが帰ってきてからのほうがどうせエネルギーも使うし夜更かしするんだ、だからわたしはおもしろいけど結果的に、……シュンがわたしのことを人間だと言うのと両立して、そうやってシュンの部屋でいつもペットの飼い犬らしく過ごしていたのだ。



 そう。シュンはわたしを飼ってくれたから――

 南美川さんは人間だよってあんなにも言うのに、

 ごはんはエサのお皿だし、わたしの嫌いなお散歩にも行くし、服は着せてくれないけど、でもわたしの身体をごしごしとお風呂で洗ってくれるし、わたしの頭を撫でてくれるし、わたしの背中も撫でてくれるし、髪も毛皮もブラシでとかしてくれて、爪も切ってくれるし、りぼんも結んでくれるし、それに楽しいおはなしいっしょにたくさんしてくれるし、わたしがどうしようもない夜にはわたしを抱っこしたままいっしょに寝てくれる。

 おかしいよね、そういうことみんなしてくれるのに、南美川さんは人間だよってシュンはそれでも、言うけど……それは、そうなのかも、しれないけど。



 でも。

 シュンは――わたしの、飼い主でも、あるんだから。



 だからいま、シュンが、わたしを飼ってくれただいじなひとが――そこに倒れて、激しい咳をなんどもなんどもして、身体を折り曲げ、げほげほ、げほげほするたびに身体が揺れるの、

 どうしたの、どうしたのシュン――わたしは言葉でそう言うよりも前に、だから、……四つ足で転がるように駆けていったんだ。



 そんなに距離がなかったみたいで、あとは床の素材がなにか柔らかい素材でツルツル滑ったりしなかったということもあって、

 すぐに、そばにこれた。

 シュンは耳にかかる長さの髪を振り乱しながら、げほげほ、げほんげほんとなんどもなんども咳き込んでいる。シュンの声はとくべつ高くもないけど、かといって低音っぽいってわけでもない、けど、それなのに――咳をするときの素の声の色だけで、このひとの声はこんなにも男のひとっぽい、んだ……。

 ……気がつかなかったこと。わたしが、はじめて気がついたこと。たくさん、たくさん。シュンにはあって……。

 でももちろんいまはそれどころじゃない。シュンが、シュンが、――苦しんでいるの、



 わたしは短い前足の小さな肉球にめいっぱいの力を込めて、シュンの肩を揺さぶった。



「シュン、シュン! どうしたの、ねえ、体調が悪いの……」

 シュンは返事をしないでまたも咳き込んだ。ちょっと、ううん、かなり心配な感じの咳だ――わたしはぺとりと肉球をそのおでこに押し当てた。シュンのおでこは長すぎる前髪でほとんどが覆われているけど、わたしはそれもいっしょくたにして肉球で、押した。……シュンはこうすると起きるはず。だからふだんは、あんまりしないようには、してるんだけど……



 そこまで思ってやっと肉球から感覚が伝わってきた、――熱い、熱いよ、わたしのこの犬の肉球だっていつもつねに体温が高いはずなのに――シュンのおでこのほうが体温が高いだなんて、うそ!



 シュンが、うめいた。わたしはなおも激しくシュンを揺さぶってしまう、

「ねえ、ねえシュン、どうしたの、どうしたのよう、起きて、起きてよお、ねえシュンどうして――」



 わたしは、そこで、ぽっかりと言葉の続きを見失った。



 どうして。そう。……どうして?

 そもそも、ここは、どこ?

 なにが、起こって――なんだかやたらと馴染みのある雰囲気だから気づかなかったけど、




 わたしはそこで痛みのように状況すべてを思い出した。

 狩理くん――真ちゃん、化ちゃん――そして、そして、――パパとママ!





 わたしはハッとしてこの部屋を見回した。

 ふかふかのカーペット。ベージュを基調にした壁紙や天井に、柔らかいオレンジ色の照明。窓はあるけれど、いまは夜みたいだ。

 馴染みがある、とても、馴染みがある――それもそうなわけだ、だってこの部屋は、……かつてわたしが人間だったころのわたしの部屋だった、ところだもん、――ただし家具とかはぜんぶ撤去されているらしい。物も、ない。ほんとうに……用済みの部屋、なんだ。

 けど、けど、それよりも衝撃だったのは――



 柵。

 中途半端な高さの、でも、わたしにとっては見上げるほどの高さの、柵が……ドアからかなりの距離をとって、設置されている。

 でも、……でもあの高さなら、シュンが、



 もちろんあのひとたちがそんな単純なミスするわけないと思うけど、わたしは思ってしまうんだ、

 ――シュンならきっとあの高さの柵も越えられる!




 体調が尋常じゃなく悪そうなシュンにはほんとうに申しわけなくて、でも非常事態だって、思って、わたしはシュンのおでこを肉球でぺちぺち叩き続けた。

「シュン、ねえシュン起きて、起きてよ、やばいの、わたしたち閉じ込められちゃったの、でも、でもシュンならあの柵だって越えられるわ、ねえシュン、起きて――起きてよお!」




 やがて――シュンが、ゆっくり、目を開けた。……やけに深くどこか弱々しいうめき声と、ともに。




「シュン! やっと起きたわね! ねえ、どうしよう、わたしたち――」

「……なみ、かわ、さん?」

「そうよシュン、わたしのほうが早く起きたんだから、だから早くここを出よう? わたしたちこのままじゃ――」



 シュンは心底脅えた顔をした。



「……え? ……っと。南美川さん。なんでしょうか……僕、気がついたらここにいたんです、けど……。

 今回のメニューは、……なんですか?

 僕……なにか、しちゃい、ましたか。その、ごめんなさい……ごめんなさい。僕はついに、……家にも帰してもらえない、ですか?」



 ――え?



「……なに、言ってるの? シュン。わたしたちわたしの実家に来て――」

「――じっ、か?」

 シュンの肩がびくんと大きく跳ねた。唇をわななかせはじめる。わたしの顔をじっと見上げる目は、かわいそうなほど、やっぱり、――脅えているんだ。



「……僕、ついに、泊まりがけで、メニュー、しなきゃ、いけない……?」



 ――わたしのほうにも気づきが電流のように走った、……あの痛い電流にたとえてしまうくらいに、つよく。



 ……メニュー。

 それは、わたしが、……高校時代のシュンに課していたものだった。

 つまり――いじめ、そのものだった。



 言われてみればシュンはとても懐かしい表情をしていた、再会してからはほとんど見せなかった、けども高校時代は毎日のように見せていた、この、顔――脅えて卑屈で見上げてきて媚びてそれでいて絶望している、この顔。



 わたしの唇とふさふさの前足もぷるぷる震えはじめていた。



「……シュン……あなた、何歳?」

「……南美川さんとおなじです……」

「――いまのシュンは何歳なの! 答えて!」



 いまはいけないと思いつつもわたしは声を荒げて、前足でシュンの肩を大きく揺すってしまった。

 シュンはまたしてもこちらの顔色をうかがう目をして、答えるのだ、




「……じゅう、なな、ですけど。四月に、僕は、十七歳に……なりましたけど……」



 十六歳から十七歳ってことは、つまり、――高校二年のときだ。

 そしてこの脅えようからすると、つまり、つまり――



 わたしたちが、ううんわたしが――シュンを、最大限に、いじめていた時代の、

 あのときのシュンに、なってしまっている、

 髪の毛はあのときと違って長いし、顔つきもおとなのそれだから――記憶をうしなってしまったとしか、思えない。



 そういえば――ママが、シュンになんか変な薬を……注射、してた……。



 そう思ってシュンの身体をあのときと比較するみたいに上から下まで見ていったら、

 ――気づいてしまった、印象はスーツと近かったけど、違う、




 このひとわたしたちの高校の制服を、着てる、わたし、わかるよ、……当時の研究者志望クラスのみんなは偏差値が高めだったから、みんな私服で通ってたけど、このひとだけは、最後まで制服での登校を強いられていたんだから……。

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