戦いの前くらい
「ね、春。幸奈も――連れて行くのだろう? ……春が南美川家に行くときに。
馨意って、だれだと思ったけれど――杉田先輩の下の名前だ。
杉田先輩、……そんなこと、言っていたのか。
「私も、気持ちとしては、預かってはあげたい。だが――できない。それは越権行為だ。ひとりの学者としての……職業倫理に、もとるものなのだ。……ごめんな。かといって、幸奈を家にひとりで置いてきてしまえば、春になにかあったとき、幸奈は、」
「言わないでください」
僕は静かな声で、でも、――そのじつ感情的に、ネネさんの言葉を遮っていた。
「それは、わかってますので。……南美川さんと、なんどもなんども、約束したことでも、ありますので。連れていきます。……連れていきます。南美川さんを――ひとりにさせたり、しないですから」
なにか、あったとき。
南美川さんが、もしも僕のあの部屋で、残されて、……ひとりきりになったら。
人間の手も足もなくて、そもそも人権さえもない南美川さんは、
……僕が万一不慮の事故があって、あの部屋からいなくなったら――おそらく畜肉処分にでも回されて、おしまいだ。
いや、それ以前に、僕があの部屋に数日帰れないような不測の事態が起こっただけでも――南美川さんは、渇いて、飢えて、……寒くて、死ぬだけなのだ。
かといって、――南美川さんを犬と扱う施設やサービスに預けることも、……怖い。僕は――そこまで社会というものを信用できないのだ、やはり。
そもそも僕は約束してしまったのだから、南美川さんが来た日、初日に――
放置しない――って、ことさえも。
……もちろん、僕はどうしようもない人間だから、
南美川さんとあの日交わした約束をすべて守れるとは思えない――けれども。
ああ、だから、南美川さん。
正直に、認めてしまおう、――僕は。
あなたのためだけではない。
僕は、僕のために――南美川さんにできれば隣にいてほしいのだ、――戦いのときであるなら、なおさらだ……。
「――南美川さんのおうちに行くっていうなら、それはきっと、……とても、怖いことですから」
僕には怖いものがたくさんあった。
そのうちの大きなひとつっていうのが、南美川幸奈で――それにかんしては、まあ、恐怖ばかりではなくなってきて、ほかの感情が大きく占めるようになってきた、けど、
それ以外のことは――僕はいまだって怖いのだ。
優秀な南美川さんが、比較にならない化物の天才だという、南美川さんのふたごの妹と弟――南美川真と、南美川化。
おそらくいまも南美川家にいるという、……南美川さんとおなじく僕の高校の同級生でもある、……峰岸狩理。
そして、もしかしたら、……南美川さんの両親も。
彼らがいる可能性が高いところに訪れる――それは。それは。それはつまり……。
「……南美川さんが、来てくれたほうが、……助かるんです、なにかと」
……助かる、どころでは、ないのだ。
来てほしい、いっしょに、来てほしい。
「……ふむ」
ネネさんは立ったまま、いまだにその場にしゃがみ込んでいる僕をもいっしょくたに見下ろした。
「ふたりにはほんとうに酷なことを言っているとは思うが――私からは、がんばってくれとしか、言えん。……手に入ったら、すぐに研究所に訪れてくれ。アポイントメントは、今度はいらないから。そんなの特例だよ? 私はアンタたちが――気に入ったのでね。チョコレートのセンスも……よかったし。な? 幸奈。――お出かけ前に、きれいになってよかったなあ」
ネネさんはそういうと、不器用に、微笑んだ。
お出かけなんて、不器用な言葉を使って。
……そのあとは、研究室で、ティータイムとばかりに洒落込んだのだ。
僕の持ってきた、……南美川さんの選んだブランドのチョコレートと、ネネさんの淹れてくれた、コーヒーで。
時間がゆったりとゆっくりと過ぎた。
他愛ないことばかり話した――杉田先輩の話とか、南美川さんのリボンやネイルの話とか、僕の職場の最寄り駅の話とか。あとはネネさんが大好きな、生き物としてのネコのこととか、ほんとうにそういう意味もないしどうでもいい、雑談ばっかりを。
……僕は、こうやって、目的もなくだらだらとひととお茶というものをしたのは、もしかしたらはじめてだったかもしれない。
僕が、……なによりよかったなと思ったのは、
生物学の第一人者であるネネさんに訊いたところ、……人犬の身体は、イヌとは違ってチョコレートも食べてよいとのことで、
それはそれはたいそうおいしそうに――チョコレートを頬張っていたということ、……だったのだ。
あまーい、と言って、にこにこしながら、僕がその口もとに割って差し出すチョコレートを、はぐはぐ、はぐはぐ、笑顔で頬張っていた。あまーい、あまーい、と南美川さんはまるで意味のない言葉のように、繰り返した。
よかったな、よかったなあって、ほんとうに、思った。――だって南美川さんがお菓子を食べるのは、それこそほんとうに――二年ぶりくらいのはずなのだ。教室で、あんなに、いつもお菓子を頬張っていた南美川さんが――ほとんど二年も、……それを食べる権利さえも自由さえも、なかったのだ。
それらを、すべて奪ったのは、……けっきょくのところ南美川家であるらしいけれども。
うん。だから、……ね。
戦いの前くらい、スイーツを食べたいだろう、……南美川さんは女の子なのだから。
(第五章、終わり。第六章へ、つづく)
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