南美川さんの後悔
話の続きの前に……次は左だ。
おしゃべりをしてはいるけど、いまは、南美川さんの爪切りの時間だ。
爪切りもちゃんとしないといけない。
右前足が終わって、いまは左前足、
それと、南美川さんは毎回嫌がるけれど、……あとでちゃんと後ろ足もやらなければならない。
だから僕はせめてもの気遣いとして、前足や後ろ足、と言わないようにしている。……気休めかもしれないけれど、気休め程度のことがきっと、南美川さんにとってはとても大きい。
「南美川さん。左手、出して」
南美川さんは、ぽすん、とその小さな肉球を差し出してきた。僕の左の手のひらに対して、あまりにも小さく収まっているその肉球。
「うん。いい子だ」
僕は南美川さんの頭に右手を軽く置く。
このくらい些細なことでも、いちいち褒めてあげないと――南美川さんは、もっと惨めになるらしいから。
……もっとも。
それは、情緒不安定にさいきんすぐになりがちな僕が、言えたことでもないんだろうけど、ね。
★
パチン。パチン。
……話の、続きも。
「南美川さんがほんとにネイルが好きだなんて、思わなかったよ。……ごめん。正直、南美川さんは、ただ流行が好きなだけのギャルに見えてた。僕にはね。ほかの仲間のひとたちにとってはどうだか、わからないけど」
「ううん、シュンじゃなくても、みんなわたしのことそう見てたと思う。……あのときはね、お馬鹿さんよね、わたしも。なんだか本気になっちゃいけない、って思って。いま、本気でスキなものをなんて、バカらしい時代でしょう? その本気でスキなものっていうのが、たまたま社会的な需要や評価と一致するものだったらいいけど、そうじゃなかったら、……社会ポイントが安定しないからやめとけって言われるのよ。ネイルが大好きだったところで――なんにも、ならないわ。わたし、あのとき、必死になって調べたんだから。いまこの国に安定してつねに必要なネイル産業の需要人数は、驚くほど少ないのよ」
パチン。
「そんなに少ないものなの? だってほら、金持ちとか有名人とか、爪をキレイにするんだろう。僕には縁遠い世界だけどさ。それにそもそもあなただってネイルが好きだし、……つけていた」
「うん。だから、爪を塗るお仕事はね、いまも残ってる。でもそれは――単純労働に部類されてしまうのよ。その、ほら、そのお仕事は機械でもできる、パートタイムのパーツ仕事だから……」
「え、ネイリストが? だとしたらそれは意外だけど」
「あ、うん、そのひとたちはネイリストじゃないの。呼び方もね、ネイリストじゃなくって、ペイントメンって呼ぶの。ただ塗るだけのお仕事のひとたちよ。だから、ネイリストじゃないの」
「なるほど。それはたしかにパートでパーツだ。……機械に代替可能ってことは、専門性がないってことだもんな」
「旧時代ではね、爪を塗る仕事って、そんなことはなかったみたい。爪をキレイに塗る仕事っていうのは、専門性が高くて、憧れの職業だったって、本で読んだことがあるわ。でもいまはそうじゃないの。……ネイルの専門性と、爪を塗ること、分かれちゃったの。だって、いまどき、実際に爪を塗る作業は――人間を雇うよりも、機械にやらせたほうがいい時代でしょ? そっちのほうが、液体の素材のアレルギーとか細かく見れて安全だし、時間なんて一瞬でパッと済むし、費用も質もどちらも機械のほうがぜんぜん、いいの。……ね、そういうテクノロジー事情って、わかるよね? シュン」
「南美川さん。僕はいちおう、AI産業のプログラム屋だ。……さすがにそのくらいのことはわかるよ」
「あ……ごめんなさい」
「謝らなくてもいいよ。……僕のほうがあなたよりも呑み込みが悪いことはわかってるから」
パ、チン。
「あの。お話の続き、していい?」
「どうぞ」
「だからね、だから……いまネイリストって言うと、ネイルのね、つまり爪のね、そのデザイン。その原型を、デザインしていくひとのことを言うの」
「あー、なるほど。そういうアーティスティックな専門性の範囲が、いまも人の範囲に残った、っていうことか」
「うん。もちろん、パターン化されたようなネイルデザインは、もう人工知能がつくり出しているわ。今後も人工知能だけでパターンは発展していけると思う……って、そういうのは、シュンのほうが詳しいのかもしれないわね。でも、でも、アート分野って、人工知能がいちばん追いついていないところでしょう? あと、あとね、スペシャライズがいちばんしにくいじゃない」
「特注とかってことかな。特殊すぎてパターン化できないから、人間がやったほうがいいとか。そういうこと?」
「そう、そうなの、そういうことよ。アニバーサリーネイル……記念日や誕生日の特注とかは、いまだに人工知能じゃなくて、人間に依頼するひとが多いみたい。でも、でもね、もっとすごいのはね」
パチン。パチン、……パチン。
「……人工知能がやっているネイルのパターンそのものを、クリエイトする仕事。それこそがいま、この国で、数人しかいないネイルのプロフェッショナル――ネイリストなの」
パチン。
「ああ、そういうことか、つまり……
「そう、そうなの。……だからたぶんネイリストも社会評価ポイントがとても高いんだわ、……ホンモノはね」
「ふうん……なるほど」
パッ、チン。
南美川さんは、パソコン画面のネイルの色やデザイン一覧画面に、見入っている。
……赤のネイルだけに統一されたこのページ。
「はい。左手、さっぱりしたでしょ。……次、嫌かもしれないけど、後ろ、やるから。ちょっとそこにごろんってして」
南美川さんは素直にごろんと仰向けになってくれた。
……人間の部分がいつも白くて眩しいし、
それとおなじくらい、金色のケモノの手足も目に毒だ。
僕がいま爪を切ってあげたばかりの、……攻撃力の落ちた両前足の肉球を、胸のあたりで曲げている。
……まさしく、犬の、こうさんのポーズ。
いっそ、なにかで覆い隠してしまえばいいんだろうけど――僕はいまいち、そうすることができないでいる。
南美川さんは、いまは、……人犬だから。
いまは、人間ではない立場だから――いまは。
南美川さんは仰向けの格好にもずいぶん慣れてきてくれた。すくなくとも、最初と比べれば。
でもやっぱりいまもちょっとだけ恥ずかしそうに、頬を染めて、頭はころりと横に向けた。……またしてもすこしだけ子どもっぽくなっている。ほんとうに、南美川さんの心の振れかたは――忙しない。
「……だから、わたし、諦めただけだもん」
なにが――と言おうとして、すぐに気がついた。
話の、続きを、しているのだ。
「……爪が、なくなっちゃうなら、もっと自分にいろんなネイルすればよかった。自分のじゃなくても、手があるうちに、だれかに頼んでネイルさせてもらえばよかったの。わたし、自分の手がなくなるなんて……考えてみたこと、なかったから……。考えてたデザイン、いっぱいあったのに、……もうだれにもしてあげられないんだわ。わたしが残したネイルアートのファイルなんて、わたしが人権を失うときに、ぜんぶ処分されちゃったみたいだし。わたしの頭のなかだけで……デザイン、ぜんぶ、いまもある。パンクしそうなほどあるけど――わたしはひとつもあらわせないのね」
南美川さんの後ろ足の爪を丁寧に切ってあげる。
パチン。パチン。
……いまも爪ならあるじゃんって言いたいけど、つまりそういうことではないのは、僕もわかっている。
僕も、さすがに、……そこまでのことは言わない。
僕は試しに尋ねてみることにした。
「……じゃあさ。もしも南美川さんができるんなら、そのネイルする相手って、僕でもよかったわけ?」
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