南美川さんの後悔

 話の続きの前に……次は左だ。

 おしゃべりをしてはいるけど、いまは、南美川さんの爪切りの時間だ。

 爪切りもちゃんとしないといけない。


 右前足が終わって、いまは左前足、

 それと、南美川さんは毎回嫌がるけれど、……あとでちゃんと後ろ足もやらなければならない。


 だから僕はせめてもの気遣いとして、前足や後ろ足、と言わないようにしている。……気休めかもしれないけれど、気休め程度のことがきっと、南美川さんにとってはとても大きい。


「南美川さん。左手、出して」


 南美川さんは、ぽすん、とその小さな肉球を差し出してきた。僕の左の手のひらに対して、あまりにも小さく収まっているその肉球。


「うん。いい子だ」


 僕は南美川さんの頭に右手を軽く置く。

 このくらい些細なことでも、いちいち褒めてあげないと――南美川さんは、もっと惨めになるらしいから。



 ……もっとも。

 それは、情緒不安定にさいきんすぐになりがちな僕が、言えたことでもないんだろうけど、ね。




 パチン。パチン。

 ……話の、続きも。



「南美川さんがほんとにネイルが好きだなんて、思わなかったよ。……ごめん。正直、南美川さんは、ただ流行が好きなだけのギャルに見えてた。僕にはね。ほかの仲間のひとたちにとってはどうだか、わからないけど」

「ううん、シュンじゃなくても、みんなわたしのことそう見てたと思う。……あのときはね、お馬鹿さんよね、わたしも。なんだか本気になっちゃいけない、って思って。いま、本気でスキなものをなんて、バカらしい時代でしょう? その本気でスキなものっていうのが、たまたま社会的な需要や評価と一致するものだったらいいけど、そうじゃなかったら、……社会ポイントが安定しないからやめとけって言われるのよ。ネイルが大好きだったところで――なんにも、ならないわ。わたし、あのとき、必死になって調べたんだから。いまこの国に安定してつねに必要なネイル産業の需要人数は、驚くほど少ないのよ」


 パチン。


「そんなに少ないものなの? だってほら、金持ちとか有名人とか、爪をキレイにするんだろう。僕には縁遠い世界だけどさ。それにそもそもあなただってネイルが好きだし、……つけていた」

「うん。だから、爪を塗るお仕事はね、いまも残ってる。でもそれは――単純労働に部類されてしまうのよ。その、ほら、そのお仕事は機械でもできる、パートタイムのパーツ仕事だから……」

「え、ネイリストが? だとしたらそれは意外だけど」

「あ、うん、そのひとたちはネイリストじゃないの。呼び方もね、ネイリストじゃなくって、ペイントメンって呼ぶの。ただ塗るだけのお仕事のひとたちよ。だから、ネイリストじゃないの」

「なるほど。それはたしかにパートでパーツだ。……機械に代替可能ってことは、専門性がないってことだもんな」

「旧時代ではね、爪を塗る仕事って、そんなことはなかったみたい。爪をキレイに塗る仕事っていうのは、専門性が高くて、憧れの職業だったって、本で読んだことがあるわ。でもいまはそうじゃないの。……ネイルの専門性と、爪を塗ること、分かれちゃったの。だって、いまどき、実際に爪を塗る作業は――人間を雇うよりも、機械にやらせたほうがいい時代でしょ? そっちのほうが、液体の素材のアレルギーとか細かく見れて安全だし、時間なんて一瞬でパッと済むし、費用も質もどちらも機械のほうがぜんぜん、いいの。……ね、そういうテクノロジー事情って、わかるよね? シュン」

「南美川さん。僕はいちおう、AI産業のプログラム屋だ。……さすがにそのくらいのことはわかるよ」

「あ……ごめんなさい」

「謝らなくてもいいよ。……僕のほうがあなたよりも呑み込みが悪いことはわかってるから」


 パ、チン。


「あの。お話の続き、していい?」

「どうぞ」

「だからね、だから……いまネイリストって言うと、ネイルのね、つまり爪のね、そのデザイン。その原型を、デザインしていくひとのことを言うの」

「あー、なるほど。そういうアーティスティックな専門性の範囲が、いまも人の範囲に残った、っていうことか」

「うん。もちろん、パターン化されたようなネイルデザインは、もう人工知能がつくり出しているわ。今後も人工知能だけでパターンは発展していけると思う……って、そういうのは、シュンのほうが詳しいのかもしれないわね。でも、でも、アート分野って、人工知能がいちばん追いついていないところでしょう? あと、あとね、スペシャライズがいちばんしにくいじゃない」

「特注とかってことかな。特殊すぎてパターン化できないから、人間がやったほうがいいとか。そういうこと?」

「そう、そうなの、そういうことよ。アニバーサリーネイル……記念日や誕生日の特注とかは、いまだに人工知能じゃなくて、人間に依頼するひとが多いみたい。でも、でもね、もっとすごいのはね」


 パチン。パチン、……パチン。



「……人工知能がやっているネイルのパターンそのものを、クリエイトする仕事。それこそがいま、この国で、数人しかいないネイルのプロフェッショナル――ネイリストなの」



 パチン。



「ああ、そういうことか、つまり……最上流工程さいじょうりゅうこうていじゃないか。僕らプログラム屋で言えばそれは高柱研究所の人間にも匹敵する。ネイリストって、すごかったんだね」

「そう、そうなの。……だからたぶんネイリストも社会評価ポイントがとても高いんだわ、……ホンモノはね」

「ふうん……なるほど」



 パッ、チン。


 南美川さんは、パソコン画面のネイルの色やデザイン一覧画面に、見入っている。

 ……赤のネイルだけに統一されたこのページ。



「はい。左手、さっぱりしたでしょ。……次、嫌かもしれないけど、後ろ、やるから。ちょっとそこにごろんってして」


 南美川さんは素直にごろんと仰向けになってくれた。


 ……人間の部分がいつも白くて眩しいし、

 それとおなじくらい、金色のケモノの手足も目に毒だ。

 僕がいま爪を切ってあげたばかりの、……攻撃力の落ちた両前足の肉球を、胸のあたりで曲げている。

 ……まさしく、犬の、こうさんのポーズ。


 いっそ、なにかで覆い隠してしまえばいいんだろうけど――僕はいまいち、そうすることができないでいる。

 南美川さんは、いまは、……人犬だから。

 いまは、人間ではない立場だから――いまは。



 南美川さんは仰向けの格好にもずいぶん慣れてきてくれた。すくなくとも、最初と比べれば。

 でもやっぱりいまもちょっとだけ恥ずかしそうに、頬を染めて、頭はころりと横に向けた。……またしてもすこしだけ子どもっぽくなっている。ほんとうに、南美川さんの心の振れかたは――忙しない。



「……だから、わたし、諦めただけだもん」



 なにが――と言おうとして、すぐに気がついた。

 話の、続きを、しているのだ。



「……爪が、なくなっちゃうなら、もっと自分にいろんなネイルすればよかった。自分のじゃなくても、手があるうちに、だれかに頼んでネイルさせてもらえばよかったの。わたし、自分の手がなくなるなんて……考えてみたこと、なかったから……。考えてたデザイン、いっぱいあったのに、……もうだれにもしてあげられないんだわ。わたしが残したネイルアートのファイルなんて、わたしが人権を失うときに、ぜんぶ処分されちゃったみたいだし。わたしの頭のなかだけで……デザイン、ぜんぶ、いまもある。パンクしそうなほどあるけど――わたしはひとつもあらわせないのね」



 南美川さんの後ろ足の爪を丁寧に切ってあげる。

 パチン。パチン。


 ……いまも爪ならあるじゃんって言いたいけど、つまりそういうことではないのは、僕もわかっている。

 僕も、さすがに、……そこまでのことは言わない。



 僕は試しに尋ねてみることにした。



「……じゃあさ。もしも南美川さんができるんなら、そのネイルする相手って、僕でもよかったわけ?」

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