犬の肉球、人間のネイル

 ……しばらくすると、落ち着いた。

 僕のほうが――と、いうよりは、僕が、だ。


 と、いうか、この気持ちは落ち着いてしまえることはないんだろうけど。

 ほら、いったんの区切りというかさ。南美川さんの吐息を浴びたり、僕の胸のなかにすっぽりいてもらったり、……そこでときどき窮屈そうにもぞもぞと動いたり、そういうのをずっとすぐそこに感じ続けたら――いったんの、思考の区切りをつけられることって、まあ、あるだろう。


 そっと南美川さんから身体を離すと、南美川さんは泣いていた。ぐじぐじとその顔を涙で静かに湿らせていた。僕のことを、すこしだけ憎そうに、見ていた。

 ……僕が、泣かせてしまったのだ。


 僕は床に置きっぱなしだったボックスティッシュを手繰り寄せると、南美川さんの涙と鼻水を丁寧に拭きとってあげた。いまの南美川さんでは、人間にとってはそんな当たり前のことさえも、できない。

 柔らかくこするようにして涙と目やにを拭き取って、「はい、ちーんして」という言葉がけとともに鼻をかませた。ついでに頬の湿りもちゃんと拭き取る……南美川さんはそのあいだ、目をしっかりと開けて僕を見上げていた。……最初は、こんな些細なことさえも嫌がっていたもんだけど。



 でも、

 南美川さんの顔がきれいになるころには、南美川さんの表情のかげりも、僕のあまりに突き上げた情動も、……拭き取ったみたいにすこし落ち着いたようだ。

 そりゃ、完全に消すことはできないだろうけども――けども。



 落ち着いてくれれば、それで、暮らせることなのだ。

 ああ。ごめん。南美川さん。だから僕、言っただろう、


 ――情緒不安定なのは僕もだよ、って。





 僕は南美川さんの爪を切っておく。南美川さんがいまはいいといくら言っても、駄目だ。その肉球の小さくも鋭さをもつ爪を放置しておいたことで、南美川さんがもしも自分を傷つけたくなったときとかに万一なにかがあったとしたら――それはぜったいに避けたかった。

 できることは、すべてやりたい。


 パチ、パチ、と大きな音が鳴る。

 南美川さんは自分の肉球をじっと見つめている。バチン、と大きな音が鳴るたびに、ぎゅっと顔をしかめている。



「南美川さん。爪を切るとこ、べつにずっとそうやって見てなくってもいいんだよ? 僕が南美川さんの爪くらいは、ちゃんと切って管理してあげるからさ。あんまり身体動かされると困るけど、首は画面に向けてていいよ。ほら、画面そのまんまだから、パソコンでネイルの一覧表見ててくれてもいいし」

「……この手の爪切りのときにそれを言うなんて、シュンって、やっぱりちょっと意地悪なのね……」


 南美川さんは冗談めかしてちょっと笑った、――だからそれが冗談ではないことが僕にはわかった。



「わたしは――もう二度と、ネイルができないのよ」



 パチ、……パチ、と。



「じゃあ南美川さん、また、僕にむかしばなしをしてくれる? 南美川さんは高校のときなんであんなにいつも、きれいに爪を塗ってたの? ……もう、ネイルをできないのに、いま一覧表を見たくなるくらいに、好きだった、ってことなのかな」


 パチン、と右から四番めの爪を、小さな爪切りで切り終わる。

 さあ、次は、右から五番め。……そうしたら、左足にいこうね。南美川さん。


「……そうよ。ネイルが、好きだったからよ」

「ほんとに? 僕にはひとつの武器のように見えた。……あの分厚いツメで僕を攻撃してくるんだ」


 僕は南美川さんの肉球を軽く押した。


 ……南美川さんの、肉球。

 人間にはもちろんほんらいついていないもの。


 ピンク色のところを押すと、ふにっとする。

 こっちとしてはその感触は心地いいけど、南美川さんとしては、そう心地いいものではないらしい。


 僕はいったん爪切りを中断して、南美川さんの肉球をふにふにふにふにと押し続けた。

 南美川さんは、ふるふると首を横に振る。いやいやするみたいに肉球を僕の手から抜こうとする。


「……シュン、ごめん、ごめんね、なにかわたしのこと怒ってる? あの、わたし、おてて、やだ……そこ、あんまりそんなに押さないで……」


 僕は、肉球をもったことはないから、その感覚はわからない。

 けど、南美川さんが嫌がることはすでに知っている……わかっていて、やった。


 僕は手を離す。

 南美川さんは耳も尻尾も垂らして、床に直接座っている僕の膝に前足をも垂らした。

 僕は南美川さんの右前足の右から五番目のふさふさの指を持ち上げ、爪切りをもういちど始める。


「それは、……ごめんなさい。ネイルはああやって使うものじゃなかったわね、ひとを引っ掻いたり突いたりするためのものじゃなかったんだわ。でも……ネイルが好きなのは、ほんとう」

「おしゃれのひとつとして?」

「それもある……けど、わたしはいちばん、ネイルが好きだったのよ。おしゃれのなかでも」

「ほんとうにそうなのかなあ。だってあなたの格好のうち、高校時代で変わらなかったのって、その金髪と、そのリボンと、あとはネイルだけ……」


 そっか――そう思えばたしかに、いまの南美川さんに当時あっていまは存在しないものは、……そりゃ、あらゆるものがそうなんだろうけど、

 外見の特徴でいえば――金髪とリボンはいまもある、そしてネイルだけがいま、南美川さんに存在しない。



 人間の手足が、ないから。



「……だから、なのよ。シュン」


 あれ、と僕は思った。

 声は相変わらずしょげている――けど、その耳がすこしずつ、ほんとうに細かい動きだけれど、盛り上がってきている。

 ……なにか気持ちを持ち直してきている。



「わたしの、こと、覚えていてくれてたなら、……思い出してよ。わたしがずうっと一貫して変えなかったのは――あの赤いネイルだけのはずなのよ」



 ……あ。



「……たしかに」


 僕の声には少々驚きがこもっていた。

 パチン。南美川さんの右前足の爪を、きれいに、切り終える。

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