どうしようもなさ

 南美川さんはネイルの一覧の画像に見入っている。

 尻尾の動きはかえって小さなものとなった。でも、ときどき唐突にピクンと立てたりする。――とても真剣に見ている。


 ネイルってほんとうにいろんな色があるらしい。僕には違いがそこまでわからないけど……。

 南美川さんは言葉でてきぱき案内してくれた、

 まずはネイルの専門の大手だというガイドホームページにいって、

 そこから色分けのカテゴリに入り、

 赤とか青とか緑とかの下位カテゴリへ、

 そのあとは赤は赤でもワインレッドとかローズレッドとか、さらに細かい下位カテゴリへ分かれていく。


 僕の28インチ型のパソコン。

 ゲーミングマシンでもないし、画素にはそんなにこだわらなかったつもりだった。でもやっぱり動画を見ることもあるし、あんまり粗いのも困ると思って、ある程度機能を搭載しておいた。

 それが、こんなところで役に立つだなんて……まったくほんとに、わからないものだ。



 画面に見入っていた南美川さんが、ふと尻尾の動きを止めた。

 僕の手をじいっと見ている。


「ねえ、シュン、シュンって意外と手がきれいなのねえ」

「え? 僕?」


 僕は検分するように手をなんどか裏表にひっくり返してみた。

 もちろん、そんなことは思ったことがない。……いや、むしろ、その逆のことなら、もうずっと。



「うん。意外と大きいし、かたちもきれいだわ。こことか……」


 南美川さんはポスンと前足を僕の手の甲に乗せた。お手をするみたいに。

 ……でもここと言われて触られても、犬の前足では、はたしてどこを具体的に指しているのかよくわからない。



「いい手じゃない。なんで、お外で隠しちゃうの? ……寒いの?」



 僕はびくりと衝撃を受けた。



 ……僕が外でつねに手袋をしていることを言っているんだろう。

 なにかと不便だから指が出るタイプにはしてるけど、たしかに僕は、外に出るときにはつねに手袋をしている。

 ……南美川さんがいまもあまり好きではない散歩の時間にも。


 それは、わかった。

 でも、南美川さん、……南美川さん。


 ――僕がなんで外で素肌を隠すのかって、本気でわからないのか?



 ……さてはて、これはどうしたものか。

 僕は一瞬だけ大きく天井を仰いだ。淡い模様のベージュ色。

 ……すぐに、南美川さんに、向き直る。


「……高二の夏の林間学校、覚えてる?」


 南美川さんはすぐに気まずそうな顔をした。――ああ。覚えてるんだ、やっぱり。

 いっそ忘れていてくれれば楽だったんだけど――そうだよな。

 そうだよな。……このひとは南美川幸奈さんなんだ。


 声が、わずかでも震えないように。


「あのときの、……僕の苛めは、すごかった。ほかもすごかったけど、とくに。しかも二泊三日だ」

「そう、ね。あの。ごめんなさい、なにか気に障ったなら……」

「あのとき僕は服をろくに着せてもらえなかった。それまでもずっと、僕はよく裸にされてたけど、二泊三日ずっとそれっていうのはつらかった。……つらかったんだよ。ずっと馬鹿にされて、笑われて。……身体的特徴のことも、ずいぶんね。だから僕は、いまだに自分の身体がヘンだと思う。……小指に至るまで、ぜんぶだよ。隠すのはむしろ――自然なことだと思わない?」


 南美川さんが、はっとした顔をした。

 まずい、って書いてある顔――ああそれも当時からだよねえ。あなたは当時はそういう顔を峰岸狩理にしか見せなかったものだけど……。


「――僕はあのあと帰ってから必死で死ねる方法をさがした。……もう牛や豚のエサになってもいいから、一瞬で殺してほしい、って。……もうこんなのは耐えられない、って」


 ……僕は、ゆがんだ笑みを、吐息とともに吐き出した。


「でも、僕はけっきょく、いま生きてる。ふしぎだね。……あんな目に遭ったのに、生きている。そうだよね南美川さん――だからさ、あのときのネイルを、僕が忘れるわけがないと、思わない?」


 人犬の南美川さんはおめめをぱっちりとさせて僕を見上げている。

 穴があくほど、まっすぐな視線で。

 ……どこか呆然としたその顔で。


 僕はあくまでもローテンションを維持しながら、内心でだけ喚き叫ぶ。

 仕方ない。仕方ない。

 ――起こってしまったことは、仕方ない。


 ――けど。


「……引っ掻いたり、殴ったり、突き立てたりも、そうだったけど。僕はあのときはじめて、ネイルって、女のひとのおしゃれだけじゃなくってそうやって使えるんだなんて、……べつに生涯知らなくてもいいようなこと知ってさ。あなたがいつも僕を指さすときにはいつもあのネイルだっただろ。だから、その。……忘れるわけがないんですけど」


 覚えているくらいのことは、仕方ないだろう。


 その、色を。

 その赤色、そのものを。


 意地悪な笑みを浮かべた口もとと、揺れる金髪、

 はしゃいでおどけて僕を馬鹿にして、僕の目の前に残酷な事実として突きつけられる、ひとさし指。


「肉食獣っていうのはきっと、こうなんだな、って。……真っ赤なネイルしてるんだな、って思った」


 南美川さんの耳も尻尾もみるみるうちに力を失っていくことは、わかっていた。

 わかっている。だって、南美川さんにとって、きっとそれは単にオシャレなことだったのだ。楽しいことだったのだ。

 そしてほんとうにそれが、好きなんだ。……日本の伝承とか生物学とかとおなじく、もしかしたらそれよりもうちょっと、南美川さんが尻尾を振ってくれたから――僕にはそのことがほんとうにそうなんだなって、わかってる。



 ……わかっていて、続けた。



「あなたのネイルは――僕には力の象徴だった」



 どうしようもない、そう、こうなってしまえば、……林間学校の想い出なんてどうしようもない。

 それなのにいまも、パソコンの起動音はいつもとおなじで快調に鳴っている。

 鮮やかな赤色のネイルの一覧表を画面に映したまま。


 南美川さんはなにかを言いたそうにして、でもけっきょく、うなだれた。

 耳もぺたりとして、ちょこんと僕の膝におさまって、うつむいている南美川さんは、反省している動物みたいで。

 ああ、なんだろう、なんだろうやっぱり、この突き上げる情動は、


 ――かわいい。



 僕は、「ごめん」とひとこと断ると、力をうしなっている僕のペットの南美川さんを、ペットにするようなかたちで、そっと、抱きしめた。


 あったかい。


 ……僕は、自分が思っているよりももしかしたらずっと、暴力的な人間なのかもしれない。

 南美川さんといると、ときどき、そう思うことがある。

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