人間未満は良い資源となれ
狩理くんにさえも、見放されたとき。
狩理くんはいつも通り、冷静に、穏当に、薄ら笑いさえ浮かべていて。
でも銀縁眼鏡のレンズの奥の目はぜったいわたしに向けないで、言われたことの、そのひとつ。
「
わたしはもちろん反論した。喚くほどの勢いで、落ち着き払った狩理くんとは対照的に。
あの日、わたしの家の背の高いダイニングテーブルで、向かい合って座って。ほかの家族は、いなくって。
「なんで!? どうして!? 狩理くんだっていつも楽しんでたじゃないの、それに狩理くん、止めもしなかったじゃない! 否定もしないで、ずっと、わたしにアドバイスのひとつもくれなかったじゃない……!」
「うーん。そういうとこ、なんだよなあ」
狩理くんはわずかにそのきれいな眉をひそめて。
「俺は御宅の保護者でもないし、指導者でもない、ましてや監査局でもないんだよ。御宅がプライベートとして楽しんでやってることに、ま、口出しするわけにはいかんかっただろ。じっさい御宅は相対評価的な成績はまあまあよかったわけだし」
「狩理くんだってああしたらこうしたらっていっぱい提案してた!」
「ま、そりゃ、暇潰しってやつですかね。でも俺は自発的にひとを苛めたことはないよ」
ふうっ、と狩理くんは煙を吹き出した。煙草だ。
煙草という旧式な文化は、けっきょく生き残った。けどちゃんと法律は整備されて、社会評価ポイントがそうとう高くないと、喫煙免許者になれない。そして免許を手に入れるには、健康診断研修や副流煙講習を年にいちど受けたうえに、簡単な筆記試験をパスして、ちょっと複雑な審査があって、それにパスしてやっとという長い道のりだ。健康に害をおよぼすおそれがあるために、自分の健康管理がきちっとできて、受動喫煙の公共迷惑性を知っている人間――つまりしてありていに言っちゃえば優秀な人間しか手に入れられないものだ。
だから煙草は現代においてとってもステータスの象徴だ。
つまり狩理くんは二十そこそこで、そこまでのポイントを荒稼ぎしていた。ふうう、と煙を吐き出す狩理くん、すでに喫煙者として手馴れてしまっているそのすがたに、彼に見放されるそのときでさえ、わたしは見惚れてしまっていた。……好きだ。
狩理くんはそんなわたしを完全に軽蔑したような顔で見ていた。タバコを、煙を、肺から出し入れしながら。
けど、わたしの視線に気がつくと、ふいにちょっとだけ柔らかく笑った、わたしのなかでふわりとうまれる、……期待。
「……御宅のせいで人生台無しになった弱者はいっぱいいるだろうねえ。俺は御宅と幼児のときから教育機関がいっしょだったから、わかるよ」
「そう、そうよね、だって学府最高機関の象牙の塔にだっていっしょに行ったんだわ」
「そう、だね。御宅は大学でもパワフルだったよねえ……あそこじゃ高校とはまた違って優秀者ゴロゴロして、だからこそかな、すげえ空気読むのうまくてなあ、空気読むなんてすさまじく旧時代的な言葉だけども、でもそうだよね。……御宅の社会性は犬のごとしと思ったものだよ」
「犬、じゃないけど、でもわたしはそうやっていつもがんばってきて――」
「だからさ、方向性を違えただけだと思うんだよな。……なんつーか、人間としての?」
狩理くんは、ふいにわたしに顔を近づけた。どきっとしたけど、キスではなかった。わたしは顔に煙を吹きかけられたのだった、――暴力、それは現代においてちゃんと禁止されている暴力だというのに。
「幸奈が――がんばったのは、認めてるよ、そりゃ、俺だって。隣で見てたんだからさあ。でもどうせがんばるなら、自分より成績の悪いやつらのためにああやって世話焼くとか、パフォーマンス的に底辺弱者を苛めるとかさ、そーゆームダを、なくしてほしかったんだよな。下なんて無視しときゃいいって俺なんども言ったじゃない。どうせムダな人間は自浄装置的に人権、奪われてくんだからさ。大学でわかっただろ? 俺も、幸奈も、べつに世界の最頂点ってわけじゃないんだよ。俺はせいぜい上の下、幸奈はせいぜい中の上だろ。あんなかで生き残るためにやるべきだったのはね、俺は、人間関係じゃなかったと思う。ちゃんと自分の研究を働きアリのごとしにしっかりこなすことだったと、思う」
こなすこと、だった――過去形。
「……そもそも高校だって超トップ校じゃなかっただろ、相対偏差で60前半ギリギリキープだ。人生上位者ルートに入れるかどうか、危ういところだったよ。……でも、幸奈には、わかんなかったんだろうな。ああ、幸奈にはわかんなかったんだよ。南美川家のお嬢さまには、俺の孤独と、ひりつく死に物狂いの上昇志向は……わからなかっただろうさ」
たしかに、狩理くんの環境は、わたしとは、だいぶ違った。
でもそんなのは家族同然なんだし、いずれ狩理くんは結婚しておなじ立場になるんだし、なんも問題ない、って思っていて――。
「……ま、もう俺も、御宅のことは、諦めましたんで。真ちゃんもいるしな。うん、俺の人生設計的にはなんら問題ないな。支障ない。軌道修正、可能であったよ。で、ま、お別れってわけなんだけど、まあ俺は良心のかたまりみたいなもんなんで……御宅さ、あと質問とかって現時点であるわけ?」
「じゃあ、……じゃあ、わたしが、苛めをしなければ、よかった、の」
「まあ、そうだねえ。……能力のある人間って、弱者を利用しないといけないんだよ。たとえば、漁に出るとするだろ、そんときって
「……どの、いじめを見て、そう思ったの……」
「いやま、ぜんぶだけどねそれ。ぜんぶ。あー、でも、ほら、高校の後半のさあ……なんっつったっけ。あの身の程知らずのキモいいつも這い蹲ってた髪ベタベタの蛆虫くん」
「……シュンのこと?」
「あー、そんな立派な名前がついてたんだっけか。なんか御宅あの虫のことはいたく気に入ってたよねえ。いつも踏んづけて遊んでたじゃない。ああ、野蛮だなあって、俺はそう思って適切な距離感とって見てただけだけど。……俺から見ればおなじ虫だからなあ。や、御宅のが多少高等だね――まあお世辞で蝶々ってくらい言ってやろうか、御宅ひらひらしててキレイなとこあるしさ。でも、ま、そんなことね。蝶々が蛆虫で遊んでたとかどんなグロ映像だよっていう」
わたしは言葉の圧に、意味に、圧倒されていた。
まさか――そんなこと。そんなこと、って、
狩理くんは、わたしの婚約者は、まるで以前とまったくおなじみたいににこりと笑った。
「お元気で、ね。……良い資源となれますように」
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