幸奈の結論、春の結論

「……むかしばなしを、してもいいかな。きっと、あなたは嫌かもしれないけれど」

「いいわよ。どうせ、こんな硬い檻じゃ、うまく眠れないもの」


 そう、――檻の鍵は、この家族が持っている。……僕はきょうは檻のなかの南美川さんにろくにふれることすらできない。


「……僕の記憶だけど、あなたはとても、面倒見がよかった。……クラスメイトや、学校のひとたちに対して。……仲間、かな。あなたにとっては、当時の。僕に対しては、その、……ひどかったけど、クラスのひとたちは、みんな、あなたのことが好きだったんじゃないかな。……僕もかたわらでそのくらいのやり取りは、聞いてたんだよ。……僕が聞いてるとわかると、あなたは僕にもっとひどくしたから、僕も聞いてないふりで一生懸命だったけど……あなたは、仲間に対しては、ごくふつうに優しいひとだった記憶がある」

「……そうね。その結果、もっとみんなを楽しませたくて、……あなたを犠牲にしたんだわ。いえ。……こんなのも後づけかもしれない。わたしは――あなたのことは、人間に見えていなかった」

「そう。そう、……だよね。あなたにとって、僕は人間ではなかった。……それは、とても、きつかったし、……きつい事実だった、けど、けどね南美川さん――あなたは自分自身が犬になったあとも、……ずっと、仲間に対して、そうしていたんだね」

「……そんな、かっこいいものじゃ、ないわよ」


 南美川さんは、僕ではない、どこか遠いところを見ている。

 その犬耳が――誤魔化しようもなく、きっとその感情とリンクして、哀しそうに、ひしゃげていく。


「わたしは、そのせいで、すくなくともひとりの人間の人生を台無しにした」

「それはもしかして、僕のこと?」

「うん。そうよ。……だったらわたしはきっともっと多くのひとたちを、踏みにじった。……犬になってからそんなことははじめて思ったけどね。みんな人間なんだなって、そんな当たり前のこと。……わたしはそんな当たり前のこともわからない人間だったの、あのとき、あのときよ、……あなたをいじめていたころはね」


 南美川さんは――つぶやく。

 そのどこまでも静かな横顔が、あの時代にふっと見せた、そう、おもに放課後の、ピアスと赤いネイルをともなう表情と一致する――



「……わたしは、犬になって、当然だったんだわ」



 僕は、なにも、言えなかった。

 酔いのせいか、なんのせいか、ぐわんぐわんしていて、めぐることはたくさんあるのに、……なにも言葉にできなくて。

 南美川さんは、ただ、ただ静かに、ポチの毛づくろいを再開していた。

 よくよく耳を澄ませば、ポチは、……きゅうん、きゅうんと、とても切なそうに極小の鳴き声を漏らしている。


 南美川さんは言葉をしゃべれるはずなのに、ポチに向かって、ポチの鳴き声に応答するかのようにして、おそらくはおなじ種類の存在として――鳴きかけるのだ。


「……わん。わん、わん。わん? わん。……わん。……わうう、わん。……わうん。わん。……わん。わんわん。……わうん? わん、わんわん、わんわんわん――」


 慰める――その表現がほんとうにぴったりで、

 なによりその声の――


 声の、調子、


 ああ、ああ、僕は思い出していた、

 その声の、音の調子で、僕は、すべてを、思い出していたのだ、


 むかしも、いまこの瞬間とまったくおなじ調子で彼女は語りかけていた。


「おつー、マユ。どしたの、なんか教室に忘れ物……ってほんとどしたの、ほらその涙、涙! ハンカチ! え? マッちゃんセンセーに怒られた? このままだと進路厳しいって? ……はーっ、あのセンコーもありえないね。だいたいさ、マユ、めっちゃ頑張ってんじゃん。わたしほどじゃない、って……そんなん関係ないでしょ、どうせ比べるならアレ見なよ世のなかああいうシュンみたいなのもいてさあ――」

「あっれ、チーちゃんじゃん。どしたの、こんな遅くまで。え、ああ、わたしは狩理くん待ってるし、シュンでテキトーに暇つぶししてっから、だいじょうぶー。あ、そかそか、部活。大会もう近いもんね? うわー、お疲れさまじゃん。チーちゃんマジ多才だもんねー。やっぱこの時代これから人間やってこーっての、大変だよねー!」

「おっ? ミーくんだあー、こんな時間に教室いるとかめずらー。おまえこそって、違うよお、わたしいつも最終下校時刻組。ん? ……ああ、ほら狩理くんのこともあるしさ、家ちょっといづらいから……。ガッコでシュンいじってたほうがまだ気ぃ晴れるってか。つかミーくんこそどした……って、えっ!? えーっ、妹さん人間未満かもと言われたとかちょいちょいちょい! クラスメイトとして聞き捨てなんねえ、詳しく!」



 ……僕に対してはほんとうに、ほんとうにひどかったけど、

 泣きじゃくるクラスメイト、疲れ切ったクラスメイト、混乱するクラスメイト、ほかにも、ほかにも、南美川さんは仲間のひとたちをいつもこうやって励ましていた、――おなじに。

 わんわんしか言わないいまと――まったく、おなじに。



 ああ、と僕は声を漏らして、どうにか、……どうにかスマホのライトはそのままで、スマホをもってないほうの右手で目もとを押さえて、南美川さんの毛づくろいとやらを、耳で聴いて、聴いて、……僕はへたりと脱力していた。

 南美川さん、ああ、――南美川さん。




 あなたはやっぱりどこまでも、僕の知ってる南美川幸奈だ。

 そして、そのうえであなたは――人犬加工だなんて、僕の受けたいじめよりももっとひどい経験をして、

 学んでる、……学んでるんじゃないか、そんなどうしようもない環境で、

 僕になしたことを悪いと思って、そんなことしてもなんの意味もないだろうにきっとおなじ檻の人犬たちを、毛づくろいして、舐め続けて、励まし続けて、慰め続けてやって、

 ……そんな繰り返しのすえにペットショップ送りなんかになったというのに、

 そうだあなたは――。



 あなたは、犬になったから、……きっともっとずっと、人間になったのだ。



『なんど人間をやったところで人間未満が人間になれるわけがないんだ』


 ああ、きっと、そんなわけは――ない。

 すくなくとも南美川さん、あなたは、――あなたはちゃんとやりなおしている。

 繰り返すだけじゃない、やりなおしている。



 南美川さんは、いまもずっと、ポチに語りかけ、その汚れているであろう身体を、ていねいに舐めている。


「……ねえ。南美川さん」


 僕の声よ、――どうか泣き言みたいに湿るな。


「南美川さんは、優しいひとに、なったんだね。……僕が、知ってるより、ずっと、……ずっとだ」



 南美川さんはちら、と僕を見た。

 そして、あっかんべーみたいに、笑った。



「なに言ってるの、人間なのはシュンで、わたしは人犬よ」



 あっかんべーのベロは、そのまま、またふたたび、毛づくろいへと戻っていく。

 ……僕は、その光景を、いつまでも、いつまでもみていた。

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