せめてもの毛づくろい

 カタン、と小さな金属質な音がした。


「……シュン?」

「あ、南美川さん――起きてた?」

「うん……」

「……嫌な思いとか、怖い思いとか、しなかった?」


 その言葉に対して返事はなかった。


「……暗いわ。シュン。あと、寒い……この仔がすごく震えてるの」

「この、仔?」

「このひと……」


 僕は暗闇のなかで目を見開く。

 信じられない気持ちだった――だが、南美川さんが意味する相手がいまここにいるとしたら、――かつて千世理という名をもったという、黒髪に黒い犬の毛をもった、ポチのことだろう。

 ちょっと待ってて、と僕は言って、暗いなかどうにか和室に置いたスマホを鞄から取り出す――いつもならポケットに入れて持ち歩くが、橘さんにこんなところまでも細かいアドバイスをもらっていた。とくに旧時代的な価値観をもつ人間はスマホを携帯することを異様に嫌う人間も多いので、盗難やこっそり見られる心配がないと判断すればできれば手放しておきなさい、もちろんロックだけはちゃんとかけて――と。

 驚いたのは、和室に行くと、居間と違い大きな窓があるおかげか月明かりがすごく明るくて、あんがい手元が見えたということだ。月がこんなに明るいだなんて――僕は、知らなかった。

 だが、月に見惚れているひまはない。僕はすぐに居間の檻のそばに、戻った。


「……はい。お待たせ。あったかくするのは……ごめん、僕では暖炉に火を灯せない。寝るときには、僕の毛布、その、外からかぶせる感じになるけど、掛けてあげようか……」


 僕は言いながら、スマホのバックライトを動かして上から照らす――南美川さんの顔を、ずいぶんひさびさに、見ることができる。



 南美川さんが三角形の耳をぴょこんとさせて、僕を見上げる。



 ……僕が危惧していたほどには、酷い顔をしていなかった。

 というか、正直なところ予想外の表情、とでも言おうか。

 泣きそうで、その顔はたしかにいつもそうであるみたいに泣きそうで――でも、その目の輝きは、……高校時代のように爛々としていた。


 ぞくっ、とした、……すこしだけだけど。

 僕は――南美川さんのこの表情を、知っている、もう長いこと、……知っている。そう、思った。

 でも。なんのときの、どの表情、だっけ……。



 そして、その隣には、……うずくまり、ガタガタと震える、ポチが、いた。


「……この仔が、さっきから、ずっと震えててかわいそうなの」


 南美川さんはポチの背中をほんとうに心配そうに見つめる。

 スマホのライトが上から当たるたび南美川さんは眩しそうに目を細めるので、僕はしゃがみ込んで横から照らすことにした。光の量も、調整する。


「……うん。南美川さんは、寒くないの?」

「ちょっと、寒い……でも、この仔のほうが、もっと、ずっと……」

「うん。でも、南美川さんは、だいじょうぶなの?」

「だいじょうぶじゃないわよ……おはなし、あんまり聞こえなかったけど、……きっとわたしたちの悪口だったのよね」

「いや、南美川さんのことは、そんなには……」

「そういうところが、下手よね、シュン」


 南美川さんはなぜか僕のほうを慈しむようにしてふっと笑うような表情をつくった。

 僕はもういちどぞくりとする――ああ、ああ、あれ、なんだっけ、これは……?


「……わたしのこととかじゃ、ないわ。……きっと、わたしたちみたいな、……ヒューマン・アニマルのこと、悪く言ってるの」

「……聞こえた?」

「ふふ、じゃあ図星だったのね。……やっぱりシュンはそういうところが下手」


 あ、しまった、と僕は思った。

 が、もう遅い――南美川さんはやっぱり笑っていた。



「わたしも、嫌だよ、それは、こんなのは、……嫌だよ。最悪よ。

 ほんとうなら死にたいくらい、最悪……。

 けどわたしはシュンにはよくしてもらってて――この仔は、こんなになるまで、……されていて。……ね?」


 南美川さんは、その不自由な四つ足で、よちよちと、ポチにすり寄る。

 そしてその背中にぺたりと毛むくじゃらの金色の前足を置くと、そっと目を閉じて、ちろ、ちろ、とその背中を舐めはじめて。

 ――さながら犬の毛づくろいだ。いや、さながらではない、――まさしく、そうなのだろう。


 そうわかっていても僕は思わず問うてしまうのだ。

 半身を完全に犬の身体にされた南美川さんがあんまりにも自然に犬の行為をしていて――それでいて、なにかがすごく、うずく、僕のなかでなにかがずっとぞくぞくとしっぱなして、とても、なつかしかった、から。


「……なに、してるんですか、……南美川さん」

「……ん、」


 南美川さんはちろ、と、ちゃんと赤い舌を伸ばしたぶんだけはポチの肌色の背中を舐め取って、舌先を引っ込めると、答えた。



「慰めてるの。……わたしたちはね、施設で、人間みたいな振る舞いをすると怒られるから、就寝前の時間とかでも、言葉を交わしたりとか、言葉じゃなくても人間っぽいコミュニケーションはね、……ぜんぶ、できないの。檻にね、みんなで入れられるんだけどね。そのなかの振る舞いもね、だいじで……檻でも、評価が高ければ、社会評価ポイントの高いおうちの里犬になれるかもしれないし、一生懸命だったわ。……みんなそうやって、人間で、なくなってくの。正気を保ってたのなんて、きっとあのなかではわたしくらい……できることなんて、毛づくろいしてあげることくらいだったの……毛づくろいは、犬の行為だから。お咎めもなかったの。……だからわたしにできることはそれくらいだった」

「……まさか。南美川さん。あなたは――ほかの人犬の面倒をそうやって檻のなかで見てやってたの?」

「……面倒を見てやる、ってほどのものじゃないわよ。だって、わたしも――犬だから。みんなとおなじ、犬だから……。……慰めたの。慰めただけ。みんな、あまりにも可哀想で、見てられなかったから……」


 僕はスマホのライトだけはどうにかそのままで、ずり落ちるようにその場に座り込んだ。

 耳に近い後頭部の自分の長い髪の毛を――ぐしゃり、と握りつぶすようにして強く、掴んだ。

 ああ、……まだ、酔いが、残っているよ。僕には、きっと、いまも……。

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