圧倒的強者

「そう。そうだよ。それでさ、あれ、それ。そう、……来栖くんの犬は、どうして、犬になったのだっけかな」

「……それ、は」

「はは、まだまだ酒が足りないってかい? ほらほら、どうぞどうぞ、うちには酒ならいくらでもあるんだからさ」


 冬樹さんはボトルを差し出す、僕も仕方ないからグラスを差し出す、僕のグラスにまたなみなみと赤ワインを注いでくれる、……ああやっとこのグラスも半分くらいまで飲めたと思ったのに。


 僕になんどもなんども酒を注ぐ表情は完璧なほど愛想がよかったが、冬樹さんのその目がどこか据わってることなんて、すぐにわかった。

 高校の――僕をいじめた連中と、おなじ目を、しているのだ。……そうだね、違法飲酒で酔っぱらって騒いでいたときなんて、南美川さん――あなただってこうやって無理に飲ませたじゃないか。


 ……きっとこのひとも圧倒的強者なんだな、って。僕は、思った、……あきらかにそうだと。



 怖い。とても、怖い。

 そりゃ人間は怖いよ、みんな。みんなだ。みんな、怖い。

 僕は道を歩いていたってびくついている。前髪で目が隠れているからかろうじて、表の道を歩ける。

 すれ違うひとたちはきっと僕のことを馬鹿にしている、……そんな思いくらい、いまもある。だって僕はどっか変なんだ。変だから、いじめられたし、……僕というものを理解したすえであんなにも馬鹿にされて嗤われたのだ。

 だから、僕は変なんだ。

 人間はみんな僕のことをそうやって馬鹿にしている。と、思う。


 ……けど、けど。

 そのなかでもとりわけ怖いのは、……同年代の強者だし、

 同年代でなかったとしても、強い人間はきっと僕のことをいつだって捕食できるのだし、

 僕は、……食べないでください食べないでくださいと、

 社会貢献を繰り返すしか――なくて。



 冬樹さんもそういう人間の目と顔を、してるんだ、……きっと僕のことなんていつだって捕食できるだろう。



 ああ、嫌だ、……嫌だよ、怖いよ。なんだよ、こんな人間。なんだよ――どうして僕のことをそんな真正面から見て、酒をついで、口もとに笑みをたたえて、ああ、ああ、――ほんとは僕のことどうやって見てるんだよ。きっとただのゴミでクズで人間未満の未満とでも、思っているに違いないんだろ。わかる。わかるよ。僕がどれだけ――蹂躙体験を繰り返してきたかってことだ。



 ……僕も、すこしばかり、酔っているようなのだった。



 だから、もういいや、もういいやって、ああ、言おう、言おうと――思った。

 もうここまできて。土日を返上して、車を八時間運転して、子どもの面倒を見る手伝いをして、

 ……そのすえのもう深夜なのだ。


 そちらのほうがあるいは道がひらけるのかもしれないし――そう思うと、……冬樹さんの酒飲ます作戦で思うツボなんだとしたら、冬樹刹那さんってほんとうに強者なんだなあ、と――はは、とごく自然な笑みが僕のアルコールまみれの口から、漏れた。



「……彼女の妹と弟が、」



 ごめんね、南美川さん。ごめん。

 あなたの話を、僕はこれからすこしする。あなたがペット用の檻に閉じ込められている、このおなじ空間で。

 どうか、そこの檻で眠っていてくれ、南美川さん。

 これからする話を――どうか聞かないでおいてくれ。頼むから。ああこんなこと僕が心のなかだけで思ったところでどうしようもない、でも――願う。意味がなかったとしても、意味がなくとも。



「妹と弟が、……優秀だったんです。彼女が、言うには――彼女よりも、ずっと」

「へえ。下のきょうだいが、優秀? それは興味深い話だなあ」

「……はい。そのせいで、」


 僕は、言う。



 ごめん、南美川さん、……僕はしゃべってしまう、いま、

 ほんとうはちょっと、そのはなし、あの日寒い夜の公園で聞いて、僕だって、……僕だって身に覚えがあるし、あなたは泣いてて、苦しそうに僕の服をその肉球でつかんでて、ああ、人間はそんな事情で犬になる、あまりの、あまりのそのはなしの悲惨さに、……僕もほんのちょっとだけつらかったのかもしれないなんて、ごめん、ごめんね、いまさらだよねほんとうにそんなの、だから言いわけにならないけれども――




 あなたのためという大義名分で僕を、許してはくれないか。



 ……僕は、言う。



「……彼女の人権は、妹と弟の教育費に変わりました」

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