りんごのすりおろし

 あのあとすぐにやって来た疲れ切って愛想の悪い宅配業者から飼育キットを受け取って、掃除よりも先に僕はまずケージを設置し、そのなかにとりあえずボロくなっていた僕のブランケットを突っ込んで、南美川さんの鎖を外して全身を抱きかかえ、中に入れた。まあそりゃそれなりに重たかったけれども、……両手で持ち上げられないほどでは、なかった。犬みたいに――犬なのだから。


 なにか言いたげな目をしている南美川さんの気持ちに気づかないふりをして、「いい子で待っててね」と声をかけると、扉を閉めてカギを掛けた。

 そのあと僕は南美川さんの粗相を片づけた。僕がしゃがみ込んで床を拭いているあいだ南美川さんはガシャガシャとケージを鳴らし、ずっと僕の背中に声をかけていた。……まるで犬がキャンキャン吠えるみたいに。


「わたしも手伝う! わたしも手伝う! 汚したのわたしなんだから、わたしも掃除する……!」

「そんなこと言ったってなにができるんだよ、南美川さん」

「舐めてきれいにする……じ、自分の粗相くらい、舐めることくらい、できるもの……!」

「……それもきっと、施設でそう教えられたんだよね。いいよ、そんなの効率悪いし、……ほんとに犬みたいだし」

「だって、わたしは……」


 僕はそれ以上返事をしないで、ひたすら床を雑巾で拭きとることに専念した。プログラミングの書籍は……まあ、諦めよう。幸い、床に置いていた書籍は、すべて大学時代に用いた入門書や基礎レベルの問題集だ。……これからは物の置き場も考えなければならない。南美川さんは、不安になると犬のようになんでもかじってしまうという癖を――きっと、悲しくも習得してしまっているのだから。

 僕は淡々と、僕のできるかぎりで最大効率に手際よく後始末をこなした。……明日も仕事なのだ。そして、夜の時間というのは、かぎられているのだ。やることくらい、てきぱき済まさなければいけない。

 僕が南美川さんとゆっくり過ごしてあげられるのは、すくなくとも平日は、夜しかない。

 どうやらペットを飼うと生活が変わるというのは、ほんとうのようだ。



 南美川さんのケージの置き場は、僕のベッドの頭側と窓のあいだの一メートル四方ほどのデッドスペースに決めた。窓枠から寒い空気がダイレクトに届くのだけはタマに傷だけど、これからもう暖房代を覚悟することにした。南美川さんの犬の手ではスイッチもまともに押せないだろうし、……そもそも部屋の空調を南美川さんにいじらせる気はなかった。

 ここは僕の部屋で、南美川さんはいまのところ僕のペットの犬だ。

 僕からすればほんとうにわずかなスペースだけど、……ここがこれから南美川さんにとって生活の中心となる。



 よし、と整った食卓を見下ろす。ほとんどがスーパーで買った物をそのまま利用したテキトーさ加減だけど、ここまでちゃんと夕食を準備したのはひさしぶりだ。

 僕はしゃがみ込むと、ケージの扉を開けた。このケージ、扉を開閉するときにキィ、と音がする。

 まるで牢屋の音だなと思ったけれども、なんてことはない、南美川さんにしてみれば閉じ込められているのだし、牢屋というのは罪人のためであっても人間のためなのだから、考えようによってはケージのほうがもっと悲惨かもしれない。

 南美川さんはその四つ足で、僕がさっそく入れてあげた柔らかいブランケットを全身で抱いていた。ふてくされているようにもすこし眠たそうにも見える、とろんとした目をしていた。……暖房も効いてきているし、もう寒くはなさそうだ。


「南美川さん。ごはん、できたよ。……出ておいで」

「……ん」


 南美川さんがブランケットを抱いたまま僕をちらりと見やる。甘えているみたいな視線だ。僕はそのタイミングを逃さず、片手をひらひらさせておいでおいでと招いた。

 南美川さんは伸びをすると、四つ足でもぞりと立ち上がった。のそのそとケージの外に出てくる。首輪の鈴がりんりんと鳴る。

 ケージから出ると、南美川さんは正座みたいにしゃがみ込んでいる僕を不安そうに見上げた。犬耳が半分くらいぺたん、としている。


「……鎖が、ないけど、いいの?」

「いいよ。僕がいるときだったら、僕の目の届く範囲で、好きに動いてくれてかまわない」


 南美川さんは驚き、ぱあっと笑った。三角形の耳が、嬉しそうにぴょこんと直立する。


「ほんとに? ほんとに、ほんとになのね? わたし、……つながれてなくて、いいの?」

「うん。ほんとうだよ」


 南美川さんは前足で僕の膝のあたりをがしがしとひっかく。ほんとうに、とことん、嬉しそうだ。


「すごい……そんな自由、はじめて」


 そんなのは自由とは言わない――そう思ったけれども、でも南美川さんにとってそれがもう今後一生ありえなかったかもしれない自由で、……反抗用の個体が集まる施設なんかではきっともはや首輪があっても犬の身体でもずうっとどこかにつながれていたのだろうと、想像はついてしまうから、僕はコメントに困って……なにも言わずに、南美川さんの頭に手を乗せておいた。

 南美川さんはほんのちょっとだけむかしみたいにニイッと笑った。



「で、南美川さん。お食事なわけなんですが」

「うん」


 僕の背の低いテーブルの隣で、南美川さんは伏せをして、尻尾をぱたぱた小さく振っている。その前には、飼育キットに含まれていたふたつのエサ皿。ただし中身は僕が飲むのとおなじ清潔な水と、僕とは違うけれども人間の乳幼児のためのすりつぶし林檎の流動食だ。……人犬用の悪意溢れるマズい固形の「エサ」よりは、ずっと、人間的な食事のはず。

 ちなみに僕の食事は、ふつうに冷凍で買ってきたハンバーグと、ほんとうにひさしぶりに炊いた米を組み合わせた。


「とりあえず僕はあなたに、水と林檎の流動食を用意した。……なにか不満はある?」

「ううん」


 尻尾の動きがその口の動きに合わせて、ううん、と南美川さんが言ったときだけそのぶん速くなる。……連動してるんだな、やっぱり。


「ほんとうに? 僕はこれからお箸とお茶碗で、ハンバーグを食べるわけなんだけど、南美川さんはそのエサ皿に顔を突っ込んで水と林檎の半液体を食べることになる。それで、不満はない?」

「だって、シュンは人間だもの。それは当たり前のことよ」


 南美川さんは――言い切った。なんの迷いもない目と口調で。

 そして嬉しそうな笑顔を深めると、尻尾をぶんぶんぶんぶんとちぎれそうなほどに、振った。


「食べるときに、吐き出しそうにならないものをもらえるなんて、思わなかったわ」

「……そっか。南美川さんが、それで不満がないならいいんだ。じゃあ、食べようか」


 僕は食べはじめようとして、あ、そっか、ともういちど言った。

「いただきます、しようか。いちおう。それじゃあ、……いただきます」


 しかし南美川さんはきょとんとした顔で僕を見上げている。


「どうしたの。南美川さん。いただきます忘れちゃった?」

「……ううん。わたしは、もしかしていま、もう食べてもいいよって許可をもらったのかしら?」

「……僕があなたに与えるのは、許可じゃないよ。これからいっしょにごはんを食べようって合図だ」

「合図は、命令ではない?」

「命令ではない。……それとも、命令のほうがいい?」


 南美川さんはすこしのあいだ考え込んでいたが、なにかを納得したような真剣な顔でうなずいた。首が動いて、ちりん、と鈴が音を立てる。


「ううん。シュンがそれでいいなら、わたしもそうする」

「そっか。じゃあ、もっかいね。はい、……いただきます。ほら、南美川さんも言って」

「……いただき、ます?」


 なぜか疑問形で言われた。僕は小さく笑ってうなずくと、箸を取って食べはじめようとする。

 だが、南美川さんがこっちを凝視したまま、動かない。


「食べていいんだよ。南美川さんも」

「だってまだあなたが食べてないわ。……人間の前に、食べるわけに、いかない」


 僕は仕方なく、ハンバーグをほんのわずか、ひときれもいかないほどのほんとうにわずかな量を箸でつまむと、……南美川さんの口にすばやく突っ込んだ。


「口閉じて、すぐに。はい。もぐもぐして。うん。いいよ。そのまま、呑み込んで。……はい」


 南美川さんは呆然としているふうにも見えた、――けどもその顔には、再会してからはじめての輝きがあった。


「……おい、しい……」

「そんなちょっとでも味ってわかるもん? まだ南美川さんは固形物食べると胃に悪いかなって思ったんだけど、でもそれにしてももうちょっと大きなほうがよかったかな――」


 僕は南美川さんのその表情に、思わず言葉を途切れさせる。


「おいしい。おいしい。おいしい……」


 南美川さんは――またしても泣きはじめてしまった。


「……う、うぇ、おいしいなんて、また思えるなんて、思わなかったよう……きのうの牛乳だって、とてもおいしくて……おいしくて……食事が生きるためじゃなくって飢えが苦しいからじゃなくっておいしい思いができるなんて、わたし――」


 僕は自分でも食事をはじめた。……僕だってきょうは残業で空腹だ。


「……そのりんごのすりおろしね、砂糖も入ってて、優しい甘さなんだって。きょうはとりあえず、そっち食べて。南美川さんはきっと、……長かった生活のせいで、胃もちょっと小さくなったりしちゃってるかも、しれない。慣らしていこう。……食事はほんとは楽しいもんなんだって、思い出してよ」


 僕がそう語りかけているうちに、南美川さんは平べったい皿に入ったりんごのペーストにおそるおそる口をつけ、舐めて、そのままがつがつと――舐めとるように、食べはじめた。

 嬉しそうな嗚咽が暖房稼働音とおなじくらいの柔らかさで僕の耳に響く。

 僕もその隣で、もぐもぐと食事をした。……とくにスマホをいじったりタブレットで動画を観たりもせず。


 なにもかもが、たったのきのうとは違う。僕たちの生活ははじまったばっかりで――そして、これから続いていく。そんな漫画みたいなことを思うけど、べつに漫画みたいに決心めいてない、――おそろしいほどに南美川さんは僕の日常風景のなかにいた。


「ねえ、ねえシュン、これ、ほんとうにおいしい!」


 僕は、小さく微笑んだ。

 口をぐちゃぐちゃにべたべたに白っぽい半液体で汚して無邪気に僕を見上げる人犬の南美川さんは、ほんとうにほんとうにいまでも夢のようだけど――地獄に僕を突き落として見下ろして指をさしてげらげら笑っていた、あのひとと、いや、あのときと、地続きの、……南美川さんなんだ。ああ、――ぞくぞくするなあ、ほんとうに。



 食事中に、キッチンに置きっぱなしのスマホが鳴ったのが聞こえたけど、あとでいいやって思った。

 皿を下げて、見てみれば――驚いた。ふだんは退社後はまず動くことのない、会社のチームでの三人グループメッセンジャー。

 橘さんからの、調査報告だった。

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