うまくやれ

 橘さんはいつも、メッセンジャーでも文章を書類のようにきちんと書いて、文が長い。

 だがいつにもまして、きょうのメッセンジャーはひときわ長くて、僕は皿洗いをするのも忘れてとりあえずその文章を読みはじめた。

 じっくり、じっくり、ひと文ひと文を目で追ってゆく。


『杉田君、来栖君。お疲れ様です。橘です。


 早速ですが、本日の来栖君の件につきまして。尚、このメッセージは、時間外労働や時間外過剰コミュニケーションを強要する連絡ではありません。プライベートに抵触と思った場合は倫理監査局に訴え出るのではなく、このメッセージに反応をしないことで対応をお願い致します。

 現在では倫理監査局の権限でメッセンジャーの開示は容易です。そして、時間外のコミュニケーションの強制は、無論厳禁です。どうぞご明察を。


 本日の来栖君の案件について早速こちらなりに調査を致しました。ガイドラインに抵触しない範囲で、お答えします。

 結論から申し上げます。来栖君と類似のケースは存在します。ですが、ここ十年で、確認できるのはたった三件。無論他のケースでも可視化されていない可能性は十分にありますが。

 しかし、ここで朗報です。その内のお一方は、現在も足取りを辿ることができます。書類を確認したところ、情報開示や情報共有にも積極的な方のようです。

 もし来栖君にその意思があるのならば、その方とのパイプラインをお繋ぎすることは出来ますが。


 また、来栖君に実際的なアドバイスを。

 くれぐれも来栖君のプライベートの日常生活が、倒錯的とみなされないようにして下さい。みなされないように、です。

 『倒錯的生活』というのは、金銭譲渡で性的行為を要求したり、家庭を持つ人間と他人的関係でありながら家族的不純交際をしたり、ペットの動物を愛玩目的以上に過剰に人間のようにして扱う、等のことです。

 来栖君はワンちゃんを飼い始めたと聞きました。大家さんと保健維持局には、早めに申し出ること。ペットがいるというシールを扉の前に貼ることが推奨されています。

 ご近所の方にもペットがいるとわかるよう、お散歩などに連れて行くと良いかもしれません。社会的コンセンサスは重要です。

 来栖君のワンちゃんは嫌がるかもしれない。けど、それはしておいたほうが何かと良い事。犬の躾は最初が肝心。よろしくお願い致します。


 それでは、来栖君。そのケースの方とパイプラインを繋ぐかどうかだけ、結論を出しておいて下さい。できれば早めに返事を下さい。

 私もこれから完全プライベートモードに入るので、既読だけつけてくれれば、本日中のご返信はご不要。

 二人とも、プライベートタイムにお邪魔しました。それでは』



 読み終えて僕は、ふう、と息を吐いた。後頭部にくしゃ、と手をやる。

 たぶん……橘さんが、いつものようなガチガチの仕事文書を装って、ほんとうに僕に伝えたかったことは、ふたつ。


 まず。知人がヒューマン・アニマルとなって再会したケースは、確認できるだけでも、三件はある。そしてそのうちの一件の人間そしてヒューマン・アニマルと――僕が望むのであれば会うことさえもできる、ということ。


 そして、もうひとつ。……南美川さんのことを人間として扱うのは仕方ないが、それはおおっぴらに知られていいものではないから気をつけろ、ということ。わかっている。そんなことは。……ヒューマン・アニマルは、人間ではない。動物だ。

 たとえば種としてのイヌであるところの犬を、ほんとのほんとに心の底から人間だと思い込み、ペットではなく人間だと扱ったら、どうだろうか。もちろん、かわいがるのはかまわない。しかし、対等なレベルでの会話を望んだり、服を着せたり、ときには助けを救いを求めたり……それは充分に倒錯的だ。つまり、そういうことなのだ。

 南美川さんはもとは人間だった――けれどもいまは、人犬だ。つまり、犬なんだ。


 しかしやはり、橘さんは厳密だ。たとえば、金で女の子を買うことや、いわゆる不倫や。そういうのだってつまり、バレなきゃいい、と言っている。僕が南美川さんを人間として扱うのもかまわない――だがそのぶん、……社会に対してこれは飼い犬なんですというアピールをバッチリしておけ、ということだ。

 いざってときに、「倒錯的生活」とみなされ社会評価ポイントを失点されないように。つけいられる隙をつくるなということだろう――けっきょくのところ、社会評価ポイントの失点なんていうのはかなりの程度で悪意やなんらかの意図をもってしておこなわれる。……たとえば、僕の社会評価ポイントを人間未満基準に落としたい悪意ある誰かがいれば、あら探しが始まる。そこで倒錯的生活の要件を満たしてしまうのは、あまりにも、大きな失点だ。

 橘さんは、ほんとうに、おそろしいほど厳密で慎重だ――もっとも、そうでなければソーシャル・プロフェッサーなどという仕事は、務まらないのだろう。

 ……杉田先輩は毎夜毎夜繁華街で若い女の子を買い漁っているし、橘さんは妻子持ちの男性とずっとただれた不倫関係を続けている。僕もうすうす、そのことは、知っている。



 うまくやれ、ってことだ。



 しかし――と僕はもういちど、後頭部をくしゃりと掻いた。

 ……散歩、かあ。南美川さんを。まあ、そりゃ……必要なんだろうなとは、思ってたけど。社会アピール的な意味もだし、……南美川さんはずーっとこの部屋にいたらまいっちゃうかな、って思ったし。

 でも、当然、首輪にリードつけて僕が引っ張ってあげなきゃいけない。道で。公共的な場で。公衆の面前で。……南美川さんはそこで四つ足で這いつくばって歩くのだ。


 そもそも南美川さんを購入して、あの土砂降りのなかで曳いて連れ帰るときでさえも、すごくヘンな気持ちになったのに――あれに耐えられるのか、僕の……なにかは。



「……シューンー……?」


 首輪の鈴の音を慣らしながら、ひょこり、と南美川さんが開け放ったままの扉から顔を覗かせた。

 僕を見上げる顔は、僕の膝頭あたりの高さ。

 ほんとうに犬の四つ足で、耳も尻尾もあって、おずおずと僕を見上げている。

 僕はまたしてももういちど、片手で後頭部を押さえるようにして強く掻いた。汚れてきている換気扇を、見上げる。



「……南美川さん。散歩は、好き?」

「嫌い。さらしものにされるから」


 即答された。

 そうかあ、だよねえ、と僕は流し台のシンクに押しつけるようにして身体を折ってしまった。

 ちり、ちりりん、と鈴の音を遠慮がちに鳴らして、南美川さんがやってくる。僕の膝のあたりを、その前足でかりかりされる。


「……散歩、行くの?」

「嫌だろ?」

「でも、シュンがそうするって言うなら、しょうがない」


 うーう、と僕はうなり声を上げながら、ずるずるとそのまま座り込んでしまった。キッチンの廊下のスペースで、崩れに崩れた体育座りみたいになる。

 南美川さんはためらいがちに、けれどもちゃっかりしっかりと、僕の脚に両足を乗せて、そこに収まった。……すこし懐いてきて、飼い主にちょっと甘えてみる犬みたいに。



 ……南美川さん。

 ほんとうに、あのときと逆のこと言ってるよね。

 高校時代は、ずっと――「わたしが言うならしょうがないでしょ、シュン」って、言っていたのに、ねえ。


 僕が南美川さんはきっと散歩に連れて行かれるのが嫌だろうなととっさに判断したのは、

 ……あなたが、ほかでもないあなたが、高校時代に僕のことを首輪で引き回して散歩をすることが、たいそうお好きだったようだからなんだよ。


 いま、自分でも言ったよね。

『さらしものにされるから』



 そうか、……そうかと、――僕はなんだか脱力してしまったよ。

 南美川さんにはやはりあのとき僕を晒し者にしている自覚があったのだということと――。



 自分があんなにもひとに向けて愉悦の表情を浮かべてやってきたことを、

 あなたはきっと繰り返しに繰り返されて、

 あなたも、……僕とおなじ地獄をみたんだね、ということが――わかって、しまうから。



 気がついたら南美川さんは僕の手の甲を遠慮がちにぺろぺろ舐めてくれていた。そんな犬みたいなことしなくていいよ、と声をかけたかったけど、なんか、無理だった。……ごめん、と言う代わりに、僕はせめてその頭を三角形の耳といっしょに、押さえるようにしてするりと撫でた。南美川さんの犬耳の裏側は、いまさらかもしれないけど、ほんとうに人間の持ち得ない感触だ。

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