62話 精神と時の魔
人の精神をその深淵から完全に破壊するという、非人道的な、おぞましき精神崩壊魔法を得意とした、右神官長ラアゴウの最も信頼する部下である老魔導師ウィスプは、夜警神官等が捕らえた伝説の勇者パーティの女勇者達と、その側近役であるアンとビスにそれぞれ恐ろしい幻術をかけた。
その各々に掛けられた呪文は、それぞれが異なる性質のものであったが、どれも永い年月と、繰り返しの残忍非道な人体実験により完成した精妙なものであり、断じてただの催眠術の延長線上に在るようなものではなかった。
その現実世界とみまごうほどの幻の世界で体験した出来事は、強烈な臨場感を越えて、もはや実体験に迫り、そこで受けた傷や、精神に影響を与えた全てのものが、実際の現実世界の肉体や精神にまで反映されるというほどに、驚異的に高レベルな支配魔法であった。
つまり、老魔導師ウィスプに放り込まれた精神の世界での死は、良くて発狂、悪くすれば実際の死を意味するのだった。
さて、その新たな犠牲者である、小柄な女魔法賢者ユリアであるが、彼女は今、正しくその高度な幻術に翻弄されている最中(さなか)であった。
妖しい美しさを誇る、紫ずくめの大魔導師ロマノの持つ杖、その先の魔法の光源の眩(まば)い光を浴び、鈍く輝く鋼鉄の巨人は、またもや鈍重ともいえる動きではあるが、大きく弓を引くように腕を振り上げた。
上半身ばかりが異常に発達したように見える、作り物の鉄巨人の攻撃目標は、足元の砂地に片膝立ちの向日葵(ひまわり)色のローブを着た、涙と鼻でグショ濡れの女だ。
不倶戴天の敵を見付けたように、知能の欠片もない鋼鉄のゴーレムは、全くの容赦なく巨大な拳を突き下ろした。
ユリアは生まれたての四つ足の獣のごとく這い、転げ、跳ねながら
「わぁっ!!」
「ひゃあっ!!」
「止めてーー!」
と、危ういすんでのところで、当たれば粉砕、即死必至の連続パンチを転げ回って不様にかわしていた。
少し離れた所で、魔法により華美な寝椅子とティーセットを呼び出し、優雅に茶を喫するロマノ。
愛弟子が悲鳴、苦鳴、命乞いの声を上げる度に舌先をチロッと出して、舞台で道化師が小突き回されるのを観て笑うように、心底楽しそうに中年男性とは思えぬ妖艶な微笑を浮かべていた。
老魔導師ウィスプにより閉じられたこの魔法空間は、現実世界に波及するほどに巧緻(こうち)に造られているとはいえ、どこまでいっても幻術であることには違いはないらしく、この試練(トライアル)が始まって48時間ほど経過していたが、ユリアも、この美貌の大魔導師も特に飢えや渇き、それから睡眠も排泄の必要も感じなかった。
ただ、襲い来るアイアンゴーレムの迫力と、足元のキメの細かい砂の感触、遠くで鳴る波の音は現実と少しも変わらなかった。
相変わらず逃げ惑うユリアは、何とかロマノのかざす灯火の範囲内、暗闇とは反対の方向に転がるので精一杯といったところであった。
「ちょ、ちょとお師匠様ぁー!優雅にお茶なんて飲んでないで助けて下さいよぉー!」
ドゴンッ!
泣き言のそこへ、また凄烈なダイナマイトパンチが落とされた。
「アヒャアッ!!」
何とか即席の魔法杖だけは手放さぬようにと、抱くようにして両の手で握りしめ、砂煙の中を転がるユリア。
ロマノは優美な寝椅子の上で、薄織りの下着のみを着けた白く長い脚を組みかえ、さも暇そうに飾り付きの肘掛けにもたれながら
「だからねー、ユリア。あ、もうこのやり取り飽きたわー。
ふぁあ……。だ、か、ら、そのゴーレムを倒すのワタシが手伝ったら、アナタはその手の錠と一緒に吹き飛んじゃうのよ?全く何度言わせる気ぃー?
ンム?それはそれで……意外に楽しいかも知れないわね?じゃ、早っ速」
俊敏に寝椅子から立ち上がる露出狂。
ユリアはその姿を目の端で捉え、いーっ!と、歯と目を剥いて
「いやいやいやいや!私、ヤッパリ吹き飛んじゃうのはイヤですー!!
わ、分かりました!私が悪かったですー!
ホントにもうっ!お師匠様ってイジワルなんだからー!!
うわぁっ!!」
またもや地を揺らす豪快な鋼の拳。
今の突きは万歳で飛んだユリアの三つ編みをかすめた。
「もうっ!しつっこいですよ!ゴーレムさん!!
よーし!もう怒ったー!!どうなっても知りませんからねー!!?」
ユリアはアイアンゴーレムを迎撃すべく攻撃魔法の詠唱、魔法語を唱え出した。
そこへ球体関節の鋼鉄製の膝蹴りが迫る。
ユリアは巧くかわしたつもりだったが、その角張った膝が、緩やかに纏(まと)ったユリアのサフラン色のローブの生地を捕らえた。
ビリバリッ!!
詠唱はおろか、あっ!と叫ぶことも出来ず、ローブからアイアンゴーレムの膨大なエネルギーを伝播され、その場で独楽(こま)のように回転するユリア。
「あきゃぁー!!」
ロングスカートのようなサフラン色のローブの裾は、ビザーッ!と武骨な巨人の膝の角に巻き取られるようして持っていかれた。
旋風(つむじかぜ)のごとく砂煙を上げながら、尚も回転するユリア。
しばらく嫌というほどグルグルと、轆轤(ろくろ)の上の壷のように回され、眼を白黒させながらその場に「はふん……」と崩れた。
アイアンゴーレムはそのスキを見逃さなかった。
ペタンと座り込むユリアに殺到し、容赦なく巨大な文字通りの鉄拳を突き下ろした。
目を回し、吐き気をも催していたユリアであったが、なんと、この魔法で閉じられた空間に来てから初めて見せる、キレのある俊敏かつ機敏な動きでパンチを大きくかわし、あまつさえゴーレムの背後に回って見せたのである。
「あれぇ!?な、何だか動きやっすーい!わぁ!お師匠様ぁ!何だか私、余裕でゴーレムさんのパンチを避けれますよー!
やったぁ!!私ったら、何かがレベルアップしたかもですぅーー!!」
鎖を鳴らして両足を跳ねさせ、空中で短い手で万歳し、愛らしいソバカス顔を歓喜に輝かせた。
ロマノは手を叩く代わりに、艶然と微笑みながら、スキップする愛弟子を指差して
「やっだぁ!ユリアったらエッチィ!」
ユリアは着地後、その場に固まり、嫌な予感を覚えながら、恐る恐る涼しくなった腰辺りを見下ろした。
「い、いーやぁっー!!」
慌てて、ゴーレムに引き裂かれたことにより、極ミニスカートになったローブの裾の前を引き下ろす。
だが、前を引き下ろせば、当然短くなったローブの後ろが生地不足となり、師匠のレースの高級品の薄い紫の下着とは対照的な、何の色気もない幼児のごときダブダブとした白い下着があらわになった。
ユリアは茹でたタコのように真っ赤になり、またもやそこへペタンと座り込んだ。
ロマノは少し驚いた顔になり、メタリックパープルのルージュの口を手で覆い
「アナタ、まーだその熊さんパンツなのー?
でも、久し振りに見たけどアナタ、意外と大きなお尻ね?分かったー!冒険とか言ってあちこちで美味しいものばっかり食べてるんでしょー?
オホホ……でも、その方が動き易いでしょ?
ここはワタシと自我のないゴーレムだけなんだから開き直って、機動性重視のそれで頑張りなさい」
ユリアは破れたサフラン色の生地を引っ張りながら天を仰ぎ
「もうー!!なんなのよー!こんなの最悪ぅー!!」
しかし幾ら嘆いてもローブは元には戻らないし、アイアンゴーレムはギリシャ彫刻のように整った、鋼鉄の冷たい顔で無表情に襲い来るだけであった。
さて、そうして更に48時間が経過した……。
読者は忘れているかも知れないが、ユリアは二十歳という若い年齢の割りに、神聖魔法から、一般に高レベルとされる魔法まで不揃いなく一通り会得している。
つまり、魔法に関しては天才の部類に入るのである。
このアイアンゴーレムとの命懸けの96時間は、ようやくユリアに戦闘というものを教え込んだといえる。
寝椅子のロマノは長いタメ息を吐き出し、しかめっ面で愛弟子を見ている。
ユリアはロマノが魔法で取り寄せた、小振りな辞書のような珍書を左手に、それを食い入るように見ながら、右手に魔法杖で、誰に影響を受けたか、魔法語に節をつけて軽やかに唱え、ミニスカートになったローブの片足を、サッと上げ、猛進するアイアンゴーレムをギリギリでかわし、バランスを崩したその鋼鉄の背中に爆炎魔法を浴びせ、巨人をその場にグツグツと融解させた。
「あっ!えー?そうなのかぁー!ねぇねぇお師匠様ぁー。ここにバンパイアって魔法を一切使えないってありますけどー、ホントに全然使えないんですかぁ?」
ロマノは繊麗(せんれい)な顎を手の甲に乗せ、面白くもなさそうに
「そうね……。けれど、バンパイアは人間とは筋肉の造りが異なっているから、猫や犬が別に筋肉モリモリでもないのに、特に助走もなく高い壁や塀に跳び上がれるのと同じで、人間とは比較にならないほどの瞬間加速能力を……って、アナタね!幾らなんでも和み過ぎよ!!」
新たに砂地から湧いた、二体のアイアンゴーレム等のコンビネーション攻撃を軽くいなす愛弟子を指差した。
ユリアは師の指摘にさしたる反応もせず、更に本のページをめくり、新たな魔法とその知識にフーン、ほーん!と唸っていたが、思い出したようにその本に記載された新たな魔法語のフレーズを唱え、迫り来るアイアンゴーレムをまた一体爆裂させた。
そうしていよいよ迎えた千体目。
結局、撃破したゴーレムの数を真面目に数えていたのはロマノである。
ユリアは特に感慨もなく、腹も減らないくせにクッキー等をかじりながら、ろくにゴーレムも見ないで、人体強化魔法で下半身を超絶肥大化させ、巨馬のごとき強烈な後ろ蹴りで、その鋼鉄の頭部を遠くの闇へと蹴り飛ばし、上級火炎魔法でそのボディをグツグツに沸騰させた。
ロマノは「ユリア!お疲れさまー!おめでとうー!今ので千体目よ!」と拍手を贈ってやるつもりであったが、何だかバカバカしくなって寝椅子にふんぞり返った。
「この娘ったら……いわゆるひとつの戦いの中で進化するタイプってヤツ?
割りとアッサリとこんなに強くなっちゃって……全く、張り合いがないったらありゃしないわ!」
当のユリアは既に極ミニのスカートにも慣れ切って、尻の辺り、熊のアップリケをポリポリと掻きながら
「あれ?何だか次のゴーレムさん出て来ませんねー?
なぁーんだー!もう終わりかー。つまんないのー。
あっそうだ!じゃあこの枷って取れるんですかね?よいしょっ!」
左手で右の枷の鉄の接合部を引っ張るが、解錠する気配はない。
「あれぇ?お師匠様ぁ!どうしましょう?これ開きませんよ!?
やだ!ま、正か爆発したりしないですよね!?
おっかしいなぁー、アイアンゴーレムさん達全部やっつけたのにー!なんで?えっ?なんでー!?」
言いながら力任せにガチャガチャとやってみるが、枷はびくともしない。
「それならあれだ!よーし!」
覚えたての肉体強化魔法を唱えようとしたとき、手枷と足枷がオレンジの燐光を放ち、その鉄の表面に古代魔法語の羅列が浮かび上がるや、キチンッ!という金属音が鳴り、枷はあっさりと解錠した。
「えっ!?」
当然、ユリアは目を丸くする。
ロマノは膝を折って屈み込み、ユリアの足枷を外してやりながら
「ユリア。この枷はね、ありふれた解錠魔法を、ただ重ねて二回かければ簡単に開いたのよ」
ユリアは潮風に帽子を押さえる師の言わんとする意図が掴めず、呆然とし、立ち上がったロマノの妖しい美貌を見つめることしか出来なかった。
「…………え!?ど、どういうことですか?
でも、お師匠様がこれに古代魔法語で千体のアイアンゴーレムさんを倒さないと爆発して、私ごと木っ端微塵になるって書いてあるっ、」
トン……。
ロマノは小柄な破れたローブの愛弟子を抱き締めた。
「ユリア、アレはね。丸ごとウソっぱちよ。
これから魔王征伐なんて大変な目標に向かうアナタを鍛えようとして咄嗟に思い付いたでまかせだったのよ。
でもアナタったらあっさりとこんなに強くなっちゃって……本気で降参したら許して上げようと思ってたけど、ちょと拍子抜けしたわ。
ここは魔法で造られた精神と時の空間。多分、ワタシは本物のワタシじゃないの。
ここに居るのはアナタの思い描くワタシ。ウフフ……役目が済んだから、そろそろ消えるわね。
本物の美の伝道者、この醜い浮世に咲いた汚れなき麗しき一輪の紫水晶の薔薇、貴き大魔導師ロマノ様に会いたくなったら、ワイラーのワタシの館にいらっしゃい。
いつでもアナタを待ってるわ……頑張りなさい、ワタシの愛するブチャイク、光の勇者ユリア……」
スッと愛弟子を引き離したロマノの体は既に半透明になっており、幻のように輪郭から黄金の砂粒へと変わり、潮風に乗りつつ後方の闇へと溶け始めていた。
「えっ!?私の思い描いたお師匠様ってどういうことですか?
ま、待って下さい!お師匠様ぁ!まだ行かないでー!!ちょ、ちょとイヤです!お師匠様ぁー!」
ユリアは涙を溢しながら必死で消え行くロマノのマントの端を掴もうとするが、そこには何の感触もなく、正しく雲を掴むように何も掴めはしなかった。
ユリアは、感謝とも寂しさとも、なんとも言えない気持ちに押し潰されそうになるのを必死で堪えて、合掌するようにちんまりとした鼻を隠して静かに泣いた。
しばらくメソメソとしていたが、手の甲で潮風で冷えた涙を拭い、師匠の残した寝椅子に力なく腰掛け、麝香(じゃこう)の残り香を潮の香りと共に吸い込み、フーッと一気に吐き出した。
「お師匠様、どうもありがとうございましたー!
よし!何だか私、強くなった気がする!!もうメソメソしたり、いつもみたいに大声を出して何でもかんでも怖がったり、動揺したりしない!
うん。私、この数日間で強くなった!」
その直後、闇の天空から凄まじい雷光が降り注いでユリアを貫き
「アヒャアッーー!!」
と、撃ち落とされたアホウドリのように叫ばせた。
ユリアは現実世界に引き戻された。
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