63話 ある意味、しっかり壊れちゃったのかもしんない

 女アサシンのシャンは、目を開けているのか閉じているのか、それさえも全く分からない、かつて体験したこともないほどの濃密な闇の中、それこそ一粒の光の粒子もない真の闇を漂っていた。


 だが、この"漂う"という表現は、かなり近いが正確さに欠けていた。

 なぜなら、女には水中にいるような浮力や流れなどといったものは全く感知出来なかったからだ。


 今の状況を表現するならば、それは無重力空間。

 何の抵抗も、広さも狭さも感じられない無限であり、無幻の世界。といったところか。


 女は、何の気配も音もない絶無の世界に急速に不安を覚えてきたので、自らの身体だけでも確かめ、抱こうとしたが、その手も足も、胴も頭も顔さえも消え失われていた。


 つまり、シャンが今居るのは、視角、聴覚、臭いも手先の感覚も何もない、全ての刺激が喪失した、正しく虚無の世界であった。


 これもまた精神崩壊魔法の名手、残忍な魔導師ウィスプのかけた恐ろしい魔法の効果であり、まるで墨汁の水槽に脳だけを浸けられたような、一切の情報、刺激のない世界だった。


 並の人間なら、もって二日。三日もすれば完全に精神を破壊された癈人(はいじん)の出来上がりである。


 さあ光の女勇者シャンよ、この無の闇のただ中でどう自我を保つ?



 彼女が最初に思考の定まらない、鈍い頭で思ったことは、これは夢だな?であった。


 そこで、誰しもが悪夢から脱する時にする事、額に力を入れて、グッと瞼(まぶた)を固く引き絞り、指先から少しづつ、徐々に動かし、無理くりに目覚めようとした。


 だがやはり、力を入れるべき額、そして上半身、その腕も手先の感覚も、顔の瞼さえも知覚出来なかった。


 シャンは勘のいい女である。

 ここで少しだけ考えて、これが意識を失う前に見た最後の人物、拘束された自分に不気味な笑みを見せ、耳を覆いたくなるような不快な擦過音の混じる嗄れ声で魔法語を唱えた、痩せこけた老醜の魔術師らしき、額に銀のサークレットをした者の幻術であろうと認識した。


 シャンはそこまで考えると、緊張の糸を弛ませて、フッと安心した。

 

 なぜなら、あの神官共が自分達を殺すつもりなら、あえて幻術など使わず、破壊呪文なり、火あぶりなりでとっくに抹殺しているだろう。


 幻術で意識と知覚を奪われたということは、相手の狙いは自分を含めたユリア、マリーナ、アンとビス達の武力の鎮圧・拘束が目的であることは明白である。


 だが、そうなれば客観的に見て、そこらの街を歩く娘達と比較して、群を抜いて美しい自分達は、十中八九、神官達により慰みものにされてしまうことだろう。


 これは決してシャンの若い自惚れではなく、事実を事実として考慮し、冷厳と導き出した答えであった。


 だが、今更に男達の野蛮な劣情を嫌悪し、悔やんだところで何も始まらないのも、また事実である。


 結局のところ、夜警の神官兵士等に容易(たやす)く拘束された自分達の不運、そしてなにより非力さが招いた結果である。

 うむ、これは仕方のないことだ。


 乙女のシャンは、努めて自らをそう納得させた。


 さて、後はこの思考以外に何もない状態が何時まで続くか、であるが。

 果たしてそれが、外部の現実世界で男達による凌辱が済み、飽きられて廃棄・放逐されるまでなのか、自らの命の終焉までなのかは分からない。

 分からないということは、分からないのだから考えても仕方がない。


 幸い、疲労も空腹も睡眠欲も感じない。

 そうなれば、もうこれは流れに身を任せるしかないようだな。と、そう思った。


 数日もこうして拘束され、音信不通ともなればあの男、魔神のごとき揺るぎない強さのあのドラクロワが黙ってはいまい。


 あの男、何事にも無関心主義(ニヒリスト)に見せて、何かにつけ、私達が称賛を贈ると有頂天になって、実に幸せそうだった。


 あのバンパイアだけではそのうち足りなくなって、寂しくなって私達を探し、その無双の武力で拾いに来るだろう。


 断じて指一本触れられたことはないが、あのドラクロワ。出会ったときから、私達の美貌にある程度は焦がれているように見受けられる節が、ある。

 

 他力本願かつ冷静に考えて、あのドラクロワを打ち負かすような戦士、魔法使いはそうはいないだろう。

 あの出鱈目(でたらめ)な強さときたら、もしかしたら、一国の軍事力より強いかも知れない。


 以上を踏まえて導かれる結論。


 それは、この不自由極まりない暗黒の状態も、鬼神のごとき魔法剣士ドラクロワが助けに来てくれるまでの、極々かりそめの、一時のものということだ。

 となれば、私がここで泣いても喚いても仕方がない、ということになるし、自暴自棄になる必要もないな。



 シャンは並の人間なら、先ず真の闇、そして自らの身体を全く知覚できないことから来る混乱、更にこの虚無が何時まで続くのか?など、暇や退屈などを感じる前に襲い来る無限の不安と、底知れぬ孤独感とで狂死するところだ。

 が、この女アサシンは至極冷静に、ある種冷酷なほどに自らの置かれた状況を受け入れた。


 シャンは銀狼のライカンスロープで、獣人深化により飛躍的な身体能力の向上が可能であり、それに加えて、幼い頃から積み上げてきたアサシンの隠れ里で培ってきた数々の技がある。

 つまり、マリーナやユリア達に比べ、その保有する戦闘力は決して低い訳ではない。

 だが、まだまだ超スピードのカミラーや、それこそ魔界の上級悪魔も裸足で逃げ出す、あのドラクロワにはほど遠く、遥かに及ばないことは常々、重々と熟知・自覚してる。


 そこで、今は幸い思考力だけは健全なままなので、現時点で出来ること、自らを内から磨くよい機会とみて、里の老練なアサシン達から奨励されていた"瞑想"というやつを心ゆくまで実践してみようと考えた。


 さて、瞑想はいいが、何から考えよう?

 いや、そもそも瞑想とは何かを考える事なのか?


 そういえば、師である祖父がよく言っていたな。

 元来、世界は全てがひとつのものであり、二元論の出る幕はなく、陰と陽も正反対のようでいて、その実は同じであるという。

 

 なんのこっちゃ!?


 この星の夜空を見上げて、肉眼では全く確認できないほど遠くに浮かぶ星、その地表の砂粒も、親友マリーナのたわわなバストも、幼い頃に不注意で踏み潰してしまった巣から落ちた鳥の雛も、海の底で巨大な鯨の死骸を解体する白い手長海老も、その全てがひとつのものであり、まずそれを理解することが必要であるという……。


 なんのこっちゃ!?


 若い乙女のシャンにとって、この哲学は荒唐無稽に過ぎており、サッパリちっとも欠片ほどにも理解は出来なかった。


 よし!ならば絶好の獲物!と、この女アサシンは思考のし応えのある、この難解な哲学を意識のまな板の真ん中に据えた。


 しかし、道理のみで理解しようとするだけではなく、もっと深いところで消化吸収をしてやろうじゃないか!

 いやいや、瞑想とはこのように意気込むものでもないか……。



 さて、22歳の女は座禅、禅問答にも似た深い瞑想を精神世界で続け、時間にして数日ほどが経過した。


 ふむ、"世界はひとつ"という考え方の意味、なにやら少しづつ解ってきたな……。

 他に分け与える心、つまるところは無私の愛。か?

 と、この女はようやく哲学の一丁目辺りを彷徨(うろつ)き始めた。


 更に精神的模索(サルベージ)は続き、その二丁目である、無とは、空なるとは何ぞや?という領域に迫って行く。


 こうしてシャンは、また瞑想を深化させていった……。


 その涅槃への没入スピードたるや凄まじいの一言であった。

 なにしろこの世界は絶無。俗世から遠いとか近いとかそういうレベルではない。

 加えて、食欲も睡眠欲もない世界である。正に瞑想には理想的な、全ての感覚が喪失した中での不休の連続瞑想である。

 これはもはや、無になるな!といわれても無になるしかないレベルであった。


 そうして海に投げ入れたボーリング玉のような早さで、淀みなく急速に精神の深みへと沈んで行くシャン。

 いよいよ、その精神レベルは修行僧、聖人をすら越え、今や神格をさえ帯び始めていた。


 この世に悲しみと理不尽が満ちているのはなぜか?

 欲と暴力が渦巻くのはなぜなのか?


 幸か不孝か、救出までの時間はまだまだあり、更に精神を解き放ちながらも研ぎ澄ませ、やがて宇宙と一体となり、真の無となってゆくシャンであった。


 そして、シャンの意識は自らの精神の深海の底の砂粒の中を、そしてその天空までもくまなく泳ぎ切り、何処までも、そう何処までも拡がり続け、遂にその殻を瞑想力だけで破ったのである。


 つまり、驚くべきことにこの若い乙女は、自力でウィスプの精神魔法を破り、現実世界へと帰還したのである。


 シャンは、ゆっくりと物理的な瞼を開けた。

 途端に視角野からは、久し振りに膨大な情報が激流となって脳を焼き、痛いほどに雪崩込んできた。


 だがそれも始めだけ、既に無であり空になっていたシャンは、それらの奔流にも少しもかき乱されることなく、見える世界などは単なる流れる情報の連続に過ぎん、と見事に全てを受け流した。


 そして波のない冬の蒼い湖面のごとくに穏やかな心で、目の前の芸術的に美麗なピンクの子供サイズの甲冑の者とすれ違い、手甲を外した、強烈な対光属性を帯びた素の手を伸ばした、美しい幼女にしかみえないバンパイアに僅かに顔を傾け、涅槃の境地に座する者のアルカイックスマイルで

 「遅かったな、カミラー」

 と、慈愛に満ちたトーンで囁(ささや)いたという。

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